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 02.06.01



「『他力本願から抜け出そう』について考える」

 5月16日に、複数の全国紙に掲載されたオリンパス・デジタルカメラの一面全面広告に、次のようなコピーが含まれていました。
 
三日坊主から抜けだそう
大樹の陰から抜けだそう
井の中から抜けだそう
無芸大食から抜けだそう
その場しのぎから抜けだそう
二番煎じから抜けだそう
箸にも棒にもから抜けだそう
他力本願から抜けだそう

 「三日坊主」から「他力本願」までの八つの言葉は、抜けだすことが望ましい、言い換えれば、否定されるべきニュアンスを持った言葉として理解されていることは明らかであります。

 「他力本願」という言葉は、私たち浄土真宗では、親鸞聖人が「他力とは(阿弥陀)如来の本願のはたらきである」と示された通り、浄土真宗の教えの中でも、最も根幹に関わる大切な言葉であります。その「他力本願」という言葉が、一連の否定されるべき表現として列挙されたことに、何とも言えない、寂しさ、やるせなさを感じました。


『広辞苑』第5版の「他力本願」の項目には、次のようにあります。

たりき‐ほんがん【他力本願】
@阿弥陀仏の本願。また、衆生がそれに頼って成仏を願うこと。
A転じて、もっぱら他人の力をあてにすること。


 『広辞苑』の説明にある通り、現在では、Aの意味としての「他力本願」という言葉も耳にしますが、あくまでも本来の意味は@であり、その信仰を拠り所とする者たちには何とも残酷な広告となってしまいました。

 同広告の新聞掲載直後より、様々な立場からオリンパス光学工業社へは抗議が寄せられているようであり、同社からは早速に丁重な回答文が届いているようであります。数多くの抗議を受けて、同じ広告は今後一切使用しないことになった、とも聞きました。

 さて、今回の広告をきっかけとして、「他力本願」という用語について考えてみたいと思います。

 法然上人、親鸞聖人を始め多くの念仏者の生きる支えとなり、苦難の多い時代社会を民衆と共に生き抜いくエネルギーになっていった「本願」「他力」が「他力本願」として全く反対の意味に使われるようになったのは何故でしょうか。
その原因を「本願(阿弥陀如来の根本の願い)」「他力(阿弥陀如来の衆生を目覚めしめる働き)」を聞いた人々の誤解に求めることはある意味で的をえているのでしょうが、その背景には、人生の苦難を行動によって解決することを諦め、来世の救いのみに「本願」を矮小化してきた一部の説き手(僧侶)の責任もあることを忘れてはならないと思います。

 「本願」は時代社会が恣意的につくりだした偏見によって、共に生きることを拒まれ互いに反目していた民衆に平等の地平を開き、互いに連帯し社会を変革していく力となったのです。
しかし特に江戸期に寺院は江戸幕府の支配構造の末端に組み込まれ、民衆を管理し体制を維持する役割を担わされました。それとともに社会体制に対する不満を抱くことを防ぐために、「現世は辛くとも来世に救いがある」と教えることによって時代社会を変革していくエネルギーを民衆から奪うという致命的な隘路に陥って行ってしまったのです。

 その中で「親鸞聖人に立ち返ろう」とする営みは心ある人々によって続けられてきましたが、大きな流れには未だなっていないように感じられます。

 「本願」には偏見に基づく差別によっていのちを見ていく闇を破り、今を生きるいのちに光と尊厳を与え民衆に平等の地平を開く力があります。それを親鸞聖人は「本願力」と顕されたのです。「力」とは私たちを転換する働きという意味です。壁に突き当たりその前で立ちすくむ私たちにその壁を作っていたのは社会通念やそれに基づく偏見であることに気づかしめ、それを相対化し乗り越えて人生を力強く歩んでいく原動力になるのが「本願力」・「他力本願」なのだと私は受け止めています。誤用やそれを生み出してきた悪い意味での諦め思想(本来は悩みの原因を明かにするということ)を乗り越え、「本願」に立ち返り、いのちに対する新たな選別が行われている時代社会の中で、全ての人々の上にいのちの尊厳を見ていく中にこそ「他力本願」の誤用を正していく道が開けるのだと思います。

酒井 淳 

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