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「佐賀の神社費訴訟判決」と浄土真宗の門徒



 2002年4月13日、各新聞は、佐賀地裁が、「自治会の神社費一括徴収は違法」との判決を報道しました。
 すでに本HPでは、「首相の靖国(春の大祭)参拝と佐賀の神社費訴訟判決について考える」のタイトルで紹介しました。
 この件に関して、同じ浄土真宗本願寺派の門徒さん(男性)から、次のようなメイルが届きました。(なお、事務局の判断で、お名前やご住所などは、匿名にいたしました)

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 佐賀の神社費訴訟は佐賀のある組の門徒さんのようですね。
 POSTEIOSで先生のお話を拝見して改めて事の重大さに目覚めさせられました。自然宗教と創始者宗教の区別さえはっきり分からない私だったので恥ずかしい思いです。原告の門徒さんへの区民の風当たり、そして檀那寺がどんな思いをされたのか気になるところです。
 しかし 本当の宗教への出発に大きな一石を投じていただいたと思います。原告の勇気に驚いています。

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 私たちは、さまざまな学びによって、人間や社会の問題点を発見する視点を恵まれています。しかし、それは相手を批判し、裁くためだけに、問題点を指摘するのが目的ではないと思います。
 たとえば、防衛庁が市民を思想・信条によって、人権を無視してリストを作り、管理支配しようとしているという事実を発見した時に、ではどのようにすれば、お互いのいのちを認め合うような生き方が回復できるのかを問いとせずに、一方的に相手を批判し裁くだけならば、自分棚上げの生きる姿勢と言わねばならないと教えられます。

 今回の「佐賀の神社費訴訟判決」と浄土真宗の門徒のあり方は、一番、根っこのところ、すなわち、私たちの宗教に対するあり方を問い直ししてくれる契機であったと思われます。
 もちろん真宗の門徒だから、「こうしなければいけないのだ」、ということではありません。もし、そういうことを言えば、訳が分からなくても、ただ丸暗記で答えだけを覚えればいいという姿勢と何ら変わりなく、自分が教えに出会って恥ずかしい私だったなという実感や喜びは生まれません。
 気づかずに見過ごしていることで、何となく世の中うまくいっているように思っていたけれど、それが、誰かの足を踏み続けていることがあるということ、つまり、問題を作り続け、御同朋御同行の親鸞さまのお心から、背き続けているということであったということです。
 しかし、これは神社費だけのことでしょうか。先に挙げた防衛庁の人権感覚の欠落、さらに暴力による問題解決を安易に認めてしまう今の首相や官房長官、そしてその内閣が進めようとする戦争法案など、気づかないことが「いのち」の尊さをどこまでも踏みにじっているのだと、私自身の姿を通して気づかされます。
 今回のある御門徒のお便りは、私に対して、念仏者としての生き方をもう一度仕切り直しをすべきだと教えてくれる内容だったと思います。

本多 静芳


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