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「ワールドカップ」で考えさせられた


    先日、このようなことがありました。

 某テレビ局から取材をしたいという電話が入りました。聞いてみると、青年会活動の一環として作っているHPに、テレビ局がアクセスをし、電話をしてきているということでした。HPの情報源としての汎用性に驚きつつ話を聞いていると、電話の趣旨は青年会で立てた、「Wカップサッカーのテレビ観戦」という企画を取材したいという事でした。

 企画の目的や観戦風景などといったいくつかの質問に続いて、滝に打たれたり必勝祈願はしませんかという質問をされました。テレビ的には面白いのかもしれないが、浄土真宗ではそういうことはしないという事を説明すると、少し思惑がはずれたという感じで、結局、取材の話は流れました。

 電話の主は、もちろん悪意があったわけではありません。一般的な仏教の理解はそういうものなのだということを再確認した思いです。

 日本の仏教は、土着の宗教との習合の歴史でもあるわけです。厳密にいえば、日本に伝来する以前の国々で同じように、習合を繰り返してきたわけです。土着の信仰には、様々な形態があったと思われますが、とりわけ病気治癒、五穀豊穣といった、生死に関わるような現世での利益を求める信仰はとりわけ重要であったことは想像に難くありません。仏教はそういった信仰をも、仏教の果報(利益)として取り込んだわけです。

 しかし、大切な事は、仏教の目的が何かということです。仏教の第一義とはすなわち悟りです。三宝印には、涅槃寂静と掲げられているのはまさにこのことであり、現世利益としての仏果は、あくまで第二義的なものであり、実は衆生を仏道に導くために働くということにその意味があるわけです。

 しかし、某テレビ局の取材のように仏教に対する理解においてこの第一義が多く語られる事なく、第二義が先行してしまっているのは悲しい事です。

 仏教の目的である、悟りというものが第一義であるということを、伝えるにはどうすればいいか。もし、これが誤解や本来の目的を伝えることに妨げとなるようでしたら、仏教界全体で問題にとりくまなくてはならないのかもしれません。
竹柴 俊徳 
 
  


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