日韓共催のサッカーのワールドカップも本日6月30日の決勝戦ですべて終わります。
オリンピック以上の大イベントだとは聞いていましたが、名実共にまさにその通りでした。私の周囲はどこへ行ってもサッカーの話題です。「サッカーは分からん、野球が良い」と言っていたひとたちもサッカーの醍醐味に興奮しています。
私の家族では、ワールドカップ以前は、Jリーグのゲームに関心を持っていたのは私だけでした。ところが、今では、私が仕事でサッカーの中継を見ることもできないでいるのに家族みんなが夢中で見ています。
超一流の技術や組織力には説得力があります。また、優勝候補と前評判が高くても、たった1点のために敗れ去っていく、90分の試合時間の中に凝縮された時間の重みは、私たちをしびれさせてくれました。とかく、私たちは日本の活躍だけに目が行きがちになりますが、開催国であったおかげですべての試合に関心を持つことができました。
その勝負を左右する審判の問題も話題になりました。明らかな誤審もあったようです。しかし、試合の結果は覆りません。シドニーオリンピック柔道無差別級銀メダルの篠原選手が、審判誤審の抗議の声の中で「自分が弱かったから負けたのだ」と言っていた言葉を思い出しました。
サッカーの選手たちは、ピッチの中で超一流の技術を駆使することだけで、サッカーファンを爆発的に増やしていきました。予選リーグが進んでいく中で、私たちは街頭において肌でそれを感じることができました。
最近ではひとの関心を集めるには、虚飾に満ちたあり方が求められています。如何に有効にお金をかけるかがものをいう時代です。スポーツもその傾向が強くなってきているような気がしていました。スポーツだけではありません、政治も宗教もその例外ではないようです。
たしかに、虚飾であろうと注目を集めれば、支持を得ることができます。そのような感覚の中で、ワールドカップは、巨大な一石を投じた形になりました。
その証拠に、サッカーの中継やニュースでタレントの存在がどんなに私たち視聴者をイライラさせたことかでわかります。
大衆が、何を求め何を認め何を受け入れたか。それは、大会を運営したFIFAではありません。ピッチで戦った選手のプレーそのものに共感したのです。
私たち僧侶は、仕事柄、常に、仏教を如何に正しく分かりやすく多くのひとに伝えていけるだろうかということを考えています。この度のワールドカップは、何か大きなヒントを与えてくれたような気がしてなりません。
小林 泰善
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