コラム 02.09.16



お参りできない国立追悼施設とは?

   広島市の平和記念公園に、「国立広島原爆死没者追悼平和記念館」が8月1日に開館されました。国立の施設に、「追悼」という言葉が使われていることで、今まで曖昧にしてきたことが、あらためて問われています。

 皆さんは、「追悼」という言葉でどのような印象をお持ちになるでしょうか。
   亡き人を心の中で思い出す。
   手を合わせてお参りする。
   お念仏を称える。
   お焼香する。
   お供えをする。
   恩徳讃を歌う。
   読経をする。
 それぞれの立場によって、「追悼」ということは様々です。

 ところで、2002年8月1日の中外日報によれば、記念館のコメントでは、「宗教者が正装して入館するのはかまわない。ただ追悼空間は音が反響する構造なので、読経や歌などは遠慮してほしい。献花台は特別に設けていないが、遺影などに花を手向けるのは構わない。静かに心の中で追悼し、平和を祈る場所と考えてほしい」としています。

 何も、「真宗者は祈りをしないのですから、お祈りなんかするつもりはありません」などと、教条的な反発をしようとは思いません。疑問を持つのは、国立の施設で、外に現れる宗教的な表現、あるいは発露を制限しているというということです。
 なにしろ「追悼」の「祈念」をする施設であると掲げてある以上、さきに挙げたような宗教的な行いを誰もが心に浮かべうる場所を国民のために作ったわけです。
 記念館を作った側の意識では、追悼という宗教行為というものは、必ず心の内側だけで行うべきもので、外側に現れてはならないというものなのでしょうか。
 これは、憲法にも抵触する大きな問題であり、私たちの信教の自由を侵すことにもなります。

 かつて、明治政府は近代国家成立のために国民(当時は、臣民でした)の意識を天皇中心にした国家作りをさせるために、宗教とは心の中で思うものであり布教伝道や人びとの前での儀礼・儀式なども抑圧する法案を掲げ、ご存じのように、その流れは国家神道へとつながっていきました。
 この議案を「外教制限意見案」1872といいます。簡単に言えば、宗教というのは内心の問題、「個人の私事」であっても、それが外に現れることは許さないということです。
 しかも、100年以上経ってもこの法案は日本人の宗教意識を縛っているのではないでしょうか。
つまり、宗教というのは心の中の問題だということです。

 とんでもない!!!
 もし、いわれるように国立の施設でこれからすべて外にあらわれる宗教行為が認められないとなったら今、日本国憲法で認められている信教の自由はどうなるのでしょう。

 日本は今、共産主義体制でもなく信教の自由が認められ、そこに宗教的人格権すら認められている社会です。
 国は国民の福祉に供するものですから、当然、その宗教的自由と発露に対して保障こそすれ、制限を加えることは本末転倒していないでしょうか。

 もちろん、そうなれば国立の施設で打ち輪太鼓に「お題目」が聞こえることもあるでしょう、また、賛美歌が響くこともあるでしょう、あるいは・・・・・、と色々な宗教的立場があることを認め合う社会が宗教的に自覚と自立を持った社会ではないでしょうか。
 ある意味で、日本はこれからそうなれる可能性があります。

 一国の代表によって、宗教的正義の名の下に悪魔のような暴力をふるうことを批判的に考え行動することもできます。
 そして、なによりも真宗者にとって、一国の代表が、国家神道の宗教施設に参拝するという異常さを回避できる可能性が今、この問題を通して考えなおすことができるのではないでしょうか。


         万木養次   2002.9.16



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