最近のニュース 02.10.01



拉致事件に思う

   9月17日の日朝首脳会談は、衝撃的なものでありました。北朝鮮の金正日総書記が国家機関が拉致をした事実を認めたこと。そして拉致された方々のうち5人が生存8人死亡との発表がありました。このような展開は事前には予想すらできないことでありました。国交正常化への道が開けたといいましてもその代償はあまりにも過酷なものでありました。


 とくに拉致被害家族の方々は、拉致問題が進展する可能性があるということで期待をもって会談の成り行きを見つめていましたが、情報が明らかになるにつれ、8人死亡の情報に落胆とやり場のない怒りに包まれました。突然の思いも寄らぬ状況の変化に心を整理することもできず、テレビカメラの前に抑えられぬ感情をさらけ出さなければならなかった家族の方々は、どんなにかつらかった事だろうと思います。


 その様子が、ニュースで流されるたびに、拉致被害家族の方々の悲嘆が思いやられ、身につまされる思いがいたしました。そこで、あらためて感じられた事は、それぞれのいのちの重さです。家族にとって、かけがえのないいのちが、「死亡」という言葉ひとつによって片づけられてしまう。そんな切なさがひしひしと伝わってきました。戦時中、戦死公報を受け取る家族も同じ思いだったのではないでしょうか。また、世界では、毎日のように同じ悲しみが繰り返されているのです。


 「死亡していました。ごめんなさい」と言われても、すぐには、とても握手どころの騒ぎではないという心情はよく分かります。


 その後の週刊誌などには、拉致被害家族の心情を楯に北朝鮮に対する敵愾心を煽るような記事も見かけます。また、在日朝鮮人の女子学生への嫌がらせなど、見当違いな破廉恥感も現れたという事です。それらは決して、拉致被害家族の方々の心情に添うものではないと思います。


 和平はその悲しみや憤りなどのつらさを乗り越えなければ成り立たないものであります。どちらかが悲しみや恨みを先に乗り越えなければ、悲しみの連鎖は永遠に終わる事はありません。悲しみから生じる憤りは、人間としていのちに寄り添う限り、同じ悲しみを繰り返させてはならないという方向に向くはずです。しかし、国家や民族が絡むと、その憤りは、恨みを増幅させる働きに利用されてきました。


 しばしば引用される言葉ではありますが、仏陀の『法句経』第5偈をあらためて引用したいと思います。


 「実に恨みは恨みによっては、ついに息むことはない。恨み無き心によってのみ息む。これは永遠の真理である」


 北朝鮮は、現在の政治体制の中にある限り、したたかな駆け引きを行ってくる可能性があります。日本政府には、それをまともに受けてたつのではなく、あくまでも双方にとっての平和を目指す立場から毅然とした対応をしていってほしいと思います。平和条約が結ばれ、民間交流が深まっていく中でこそ、拉致被害家族が求めている真相の究明と相互理解がなされる事と思います。

                     小林泰善 2002.10.01




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