最近のニュース 02.10.06



千鳥ケ淵法要の意味を問い直す

   今年22回目となる千鳥ケ淵法要の第一回が営まれたのは1981年。当時、教団内状況において最も熱く語られた教学テーマは「真俗二諦」の超克だったのです。それは70年代半ばより指摘されることが多くなった教団の戦争責任論即ち戦時教学の確認と精算を訴えるものでした。


   その中で開催された千鳥ケ淵法要は、翌年に第一次中曾根内閣が発足して右傾化への危機感が強まるという外的状況をも伴い、反靖国の具体的実践としての明確な位置づけがあったことは言うまでもなく、その意義は決して小さいものではありません。中でも「全戦没者」の追悼を掲げたのは靖国思想との対比を際だたせたのみでなく、視点を日中戦争・太平洋戦争だけに留まらせない広がりを可能性を持たせた点で画期的でした。


   その意味する所は今日にあっていよいよ、普遍的な輝きを有するはずです。しかし残念ながら近年の主催者挨拶や記念法話を伺う限りでは「非戦平和」が普遍と言うより抽象に霧散してしまう感が否めません。


   昨年の法要は9.11の直後であり、どのような言及がされるか注目しましたがただ「犯人グループへの憤り」が表された皮相なものでした。今年は北朝鮮問題への一言の言及もありません。時事に徒に呼応するのは愚かとしても、今の「非戦平和」の訴え方が、はたして「祈れば平和がやってくる」かのような某教団の「平和運動」とはたしてどれだけの差異があるのか疑問です。本願寺教団は反靖国への姿勢において宗教界では先駆的な役割をはたしてきたことは認めるとして、ではその経験を踏まえた具体的な平和構築への(発言を含めた)行動があるかと言えばお寒い限り。それでは靖国問題への取り組みさえも、未来への行動を留保するためのアリバイづくりと見られても仕方ありません。


   過去の反省を踏まえながら、それとは違った次元での平和構築の取り組みを提示する場所として千鳥ケ淵法要を位置づけたいと思います。その方向性の一例は千鳥が淵法要の前日に築地別院にて開催された「全戦没者追悼のつどい」 と、併催されたパネル展に見ることができます。



                     松本智量 2002.10.02




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