毎日新聞(12月10日)に浄土真宗本願寺派が「祈り」を公認したとの記事がでていました。しかし、それは事実と違う誤報であったようです。
みなさんは「祈る」という言葉についてどのようなイメージを持っていらっしゃいますでしょうか。
神仏に祈る。祈願する。交通安全や家内安全、合格祈願などいくらでも思い浮かびます。また、キリスト教徒やイスラム教徒の祈りの時間をイメージされた方も多いことだと思います。
それに対して、浄土真宗は「祈らない宗教である」と言われます。
現世祈祷は、教義の上からも否定されています。私たちは仏さまに祈る必要はありません。私たちがお祈りやお願いする前に、すでに阿弥陀さまの方から私たちへ救いの働きをされ続けておられるのです。
ましてや阿弥陀さまの私たちを救わずにはおらないという誓いを前にしますと、私たちの祈りは、自分勝手なものであり迷いそのものの現れであると反省せざるを得ません。
ですから、浄土真宗では「祈る」という言葉自体をとても気をつけて使わないようにしてきた経緯があります。 例えば、挨拶の常套句としての「ここにご参加の皆さまのご健康とご多幸を祈念いたします」とか、乾杯の挨拶の「みなさまのご健勝を祈って乾杯」などと言うときに、「祈念する」とか「祈る」という言葉を「念じて」とか「願って」などという言葉に置き換えて使用するなどということもしてきています。
「祈る」を「念じる」に置き換えたところで、その意味合いは同じことじゃないかと思われるかもしれません。 たしかにその通りであり、そのような常套句を使用しなければすむことなのです。 しかし、そこにある思いには、「私は神仏に現世の祈りをしているのではありません。私の希望をのべているのです」との真宗門徒としての自戒が込められているのです。
私は、そのような心は大切にしていかなければならないと思っています。
ただ、「祈り」は、宗教上の重要な行為であることには間違いありません。他の宗教や他の宗派の人々の行為まで否定する必要はありません。ましてや、最近では宗教宗派を超えて種々の活動が行われています。 例えば今年の1月24日には、イタリア中部の都市、アッシジで、昨年の米国の同時多発テロに起因する国際情勢の悪化を憂う世界の宗教者が一堂に会して、「世界宗教者祈りの日」が行われました。 また、国が新たな「追悼・平和祈念のための記念碑等施設」を検討しています。 私たちは、「祈り」や「祈念」という言葉が使われているから反対するというような野暮なことは言いません。複数の宗教の集まりでは、一宗教の儀礼で行事を進めるわけではありません。 私たちは、浄土真宗なりにその信心の上から「祈り」という言葉を消化し、浄土真宗の姿勢でその場に望めばよいことなのです。
小林泰善
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【資料@】
12月10日付 毎日新聞記事 「祈り“公認”浄土真宗本願寺派」【全文】
合格祈願や無病息災といった現世利益(りやく)を求めないため、「祈らない宗教」とされてきた浄土真宗本願寺派(京都市下京区、本山・西本願寺)の教学研究所が、「祈り」について「宗教の原点であり本質だ」と“公認”する見解を示していたことが9日、明らかになった。
浄土真宗は宗祖・親鸞(しんらん)聖人の時代から、現世の欲望から来る祈りを「不純な動機に発する行為」と否定してきた歴史がある。門信徒数公称1000万人、末寺1万を誇る国内最大の伝統仏教教団の変化が、宗教界や他の真宗門信徒らに与える影響が注目される。
宗派の国会にあたる定期宗会で、祈りを否定する考え方に疑問を投げ掛ける質問に対し、“内閣法制局長官”ともいえる教学研究所長の大峯顯(あきら)・大阪大名誉教授(宗教哲学)が答弁。「『祈り』とは聖なるものと人間との内面的な魂の交流であり、あらゆる宗教の核心。『祈り』の概念は現世利益を求める祈とうよりも広く、祈りなくして宗教は成り立たない」と明言した。
浄土真宗では、阿弥陀仏への感謝の心で念仏を唱える時、浄土に往生して仏になることが決まるとされる。信心や修行など人間側の力(自力)を超越した阿弥陀仏の力他力)が教義の根幹にあるため「他力本願」の言葉が生まれ、「健康をお祈りします」といった表現でも「念じます」と言い換えるのが正しいとされてきた。
しかし、世界規模の宗教間対話が行われる時代の流れが、変化を促した。 他のあらゆる宗教が「祈り」を持つ中で、大峯所長は「(真宗では)祈りの概念を論理的に整理してこなかったため矛盾感が表面化してきた」と説明。「言葉の表面的な意味で『真宗は祈らない』と単純に割り切るのは教条主義だ。死への恐怖といった人間の根源的な問題に答えず、『現世利益は求めない』と言っても説得力がない」と話す。
また、真宗大谷派(京都市下京区、本山・東本願寺)の玉光順正・教学研究所長も「人間の思いを超えた領域にある『祈り』の意味を、誰もが理解できる言葉で説明することを真宗は怠ってきたとも言える」と肯定的にとらえている。【丹野恒一】
宗教評論家の丸山照雄さんの話 浄土真宗は独自性を強調するために「祈り」をあえて狭義にとらえてきたとも言える。 言葉にこだわり過ぎれば、一般の日本人に通じないばかりでなく、外国語に翻訳する際に支障が生じ、込められた精神が届かなくなる。その意味で、教学研究所が「祈り」を認めたのは大きな一歩だ。
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【資料A】
教学研究所、「『祈り』について」
十二月十日付の毎日新聞に「祈り“公認”浄土真宗本願寺派」という見出しで、「いの」という言葉の使用を宗派が認めるかのような記事が掲載されました。 この記事は十月に招集された第二百六十九回定期宗会での「いのり」という言葉についての質疑をもとに作成されたもののようですが、誤解を招く表現であったため、早速、毎日新聞に申し入れをしました。 掲載後宗務所へ様々な問い合わせがありましたので、浄土真宗教学研究所にあらためて教学の上から、「いのり」について執筆してもらいました。
浄土真宗では、伝統的に「いのり」という言葉は使用してきませんでした。「いのり」という言葉は、本来神仏に対して願い求める(「祈願請求」)という意味を持ち、その意味が浄土真宗の教えに背くからです。 浄土真宗の信心は、自らのはからいをまじえず、絶対的な阿弥陀如来のはたらきにまかせるものです。 したがって「いのる」必要がないと言えます。もし「いのり」を認めるならば、それは自己のはたらきを認めることとなり、他力の信心を否定することになります。
浄土真宗のみ教えには、このように祈り求めることを否定する明確な教理があり、親鸞聖人の著されたものの中には、「いのり」を積極的に使用した例を見ることはできません。 ただ、性信坊に宛てられた消息の中に肯定的と思われる使用例もありますが、「いのり」という言葉を「おぽしめす(お思いになる)」と表現し直されるなど様々な限定の中で使用されております。 したがって、この用例をもって宗祖が積極的に「いのり」の使用を認められたとは到底言えません。
一方、現代の「いのり」の語を調べますと、神仏を対象として願い求めるという古典的な意味とは別に、「心から望む、希望する、念ずる」という意味が出てきます。 したがって現代では、「いのり」という言葉の中に、神仏を対象としない意味が含まれるようになってきています。
また、「いのり」は英語のprayの訳語として使用されていますが、この言葉は神との対話を意味しており、神に願い求めるという意味には限定されえません。
しかしながら、絶対的な阿弥陀如来のはたらきにまかせる浄土真宗の教えの上から、決して「いのり」ということは認められるものではなく、それ故これまで「いのり」という言葉を使用してこなかったのです。
このことを重く受けとめなければなりません。
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