12月24日、官房長官の諮問機関である「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」の報告書が発表されました。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/kettei/021224houkoku.html
今回の報告書は、一読して2・3疑問を感じる点もありますが、おおむね妥当な内容であると思われます。靖国神社と千鳥ヶ淵墓苑などの既存施設との関係も簡潔明瞭であり、むしろ全体には靖国神社の慰霊顕彰の立場との違いが明確になっています。
政治の流れから判断しますと、この問題はこのまま棚上げされてしまう可能性が高いのですが、国としてここまで踏み込んだ報告書が出たことは評価すべきと思います。
その報告書の内容について少し考えてみたいと思います。
懇談会の結論としては、「国を挙げて追悼・平和祈念を行うための国立の無宗教の恒久的施設が必要であると考えるに至った」としています。ただし、具体的な事柄については時期尚早ということで先送りにされています。すなわち、報告書では国立の追悼施設の必要性についての理念が述べられています。
まず、その必要性については、
「国際社会の中で自ら一人のみで生きる国家という在り方がもはや困難になっている今日、日本は、他国との共生を当然の前提としつつ、追憶と希望のメッセージを国家として内外に示す必要がある」
として、なぜ今国立の追悼施設かとの問いに答えています。
また、なぜ国立でなければならないかとの問いに対して、
日本国憲法の元で再生した日本にとって「平和こそが日本の追求すべき国益であることが自明の理」であるにもかかわらず、
「『戦争と平和』に関する戦前の日本の来し方について、また、戦後の国際的な平和のための諸活動の行く末について、戦後の日本はこれまで国内外に対して必ずしも十分なメッセージを発してこなかった」
との現実を押さえて、「追悼と平和祈念を両者不可分一体のものと考え、そのための象徴的施設を国家として正式につくる意味がある」としています。
ただし、そこで注釈的に、
「同時に注意すべきは、日本は、民主主義国家として当然ではあるが、国家として歴史や過去についての解釈を一義的に定めることはしない。むしろ国民による多様な解釈の可能性を保障する責務を持つ」
として、国立の施設はあくまでも追悼・平和祈念のための象徴的施設であり、国が歴史解釈や追悼のあり方を強制するものではなく、国民の一人一人の多様な思いを保証する場であることを示しています。
国が強制しないことを明記していることはとても重要な点です。何人もわだかまりなく追悼・平和祈念を行うことができる場としての基本がそこにあることが示されています。
次に、施設の基本的性格について報告書では次のように述べています。
「この施設は、日本に近代国家が成立した明治維新以降に日本の係わった戦争における死没者、及び戦後は、日本の平和と独立を守り国の安全を保つための活動や日本の係わる国際平和のための活動における死没者を追悼し、戦争の惨禍に思いを致して不戦の誓いを新たにし、日本及び世界の平和を祈念するための国立の無宗教の施設である」
ここは、新しい戦死者も祀るのかとの論議の的となる部分です。報告書では、「戦後は」以下に述べられているように新たな死没者も追悼の対象となることを示しています。この点は異論の多いところと思います。
また、追悼の対象として、
「追悼の対象は、国のために戦死した将兵に限られない。空襲はもちろん、戦争に起因する様々な困難によって沢山の民間人が命を失った。これらの中には既存の慰霊施設による慰霊の対象になっていない人も数多い」
ことを指摘し、
「過去に日本の起こした戦争のために命を失った外国の将兵や民間人も、日本人と区別するいわれはない」
として、本願寺派の千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要の理念に近い立場になっています。
ただし戦後については怨親平等の立場にはなっていません。
この基本的性格の中で私が最も注目をしたのは、「無宗教の施設」と断定しているところの宗教性です。
誰をどう祀るのかと言うことは、靖国神社の問題で常に論じられてきました。その点について報告書には、
「宗教施設のように対象者を『祀る』、『慰霊する』又は『鎮魂する』という性格のものではない」
としており、具体的な個々人が追悼の対象に含まれているかを問う性格のものではないことを明らかにしています。
すなわち、神道的な合祀によって対象が限定されるようなことはないとのことです。国が歴史解釈や追悼のあり方を強制するものではないということを、合祀という祭祀のあり方から明確に一線を画すということにより具体的に示していることには大きな意味があります。
このことは国が死者を選別して戦争賛美のために国家が管理するという性質のものではないとのことを示しています。
この点は特に明らかにしていかなければならないところなのですが、報告書の戦後の追悼対象に言及した部分の記述には、死者の選別という点からも矛盾があると指摘することもできるのではないかと思われます。
そして、政教分離の中にあってどう個々の信教の自由を補償するのかという問題ですが、この点について
「しかしながら、施設自体の宗教性を排除することがこの施設を訪れる個々人の宗教感情等まで国として否定するものでないことは言うまでもなく、各自がこの施設で自由な立場から、それぞれ望む形式で追悼・平和祈念を行うことが保障されていなければならない」
と報告書は国の立場を明らかにしています。
このことは、公の追悼施設の運営のあり方について、信教の自由を保証する一定の方向性を示したものとして大いに評価できるところです。
有事立法など、かまびすしい問題の中で、この国立追悼施設の論議は、唯一右傾化を牽制する役割を担っていたのではなかったかと思います。
このたびは小泉首相が個人の信条で靖国参拝に固執したため、近隣諸国の外圧の中から小泉首相自らの言葉で提起されたものでした。しかし、それは国の戦後の宗教政策がいかに貧困であったかあぶり出した結果になったのではないかと思います。
宗教者がこの論議に主体性を持って参加し、論議の中に世論を巻き込むことができなかったことが残念でなりません。
小林泰善
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