12月19日、朝日夕刊「窓」欄に「脱クリスマス」という記事がありました。
また、あの季節になった。ジングルベルがあふれ、家々がピカピカの電飾で飾られる。 教会にさえ行ったことがない我が家は、クリスマスを祝ったことがない。飾りつけも贈り物もなし。ほかの宗教に熱心なわけではない。祝ういわれがないだけだ。
ところがそんな家はかなり少数派のようで、我が子は不満顔だ。何しろ公立の小学校でもクリスマス会をするという。なぜ祝うのか、先生に説明を求めなさい。納得できたら参加すればよい。子供にはそう言っている。
クリスマスにケチをつけるつもりはないが、参加しない人がいたっていい。人それぞれ、で済む話ではないか。なのに「みんなやってるのにやらない妙な家」と見られるのが日本社会らしい。
ジョン・グリシャムの小説『スキッピング・クリスマス』(小学館)がおもしろかった。クリスマスをすっぽかして旅行に出ようと決めた夫妻をめぐる騒動である。あの家はユダヤ教か仏教か、と周囲はいぶかる。それなら納得、ということなのだろう。
日本はどうか。違いを認めて排除せず、ともに暮らす社会になっているだろうか。
(抄出)
もう少し宗教性に引き当てて考えてみましょう。
随分昔、ニューヨークのロックフェラーセンターに掲げられるツリーの呼び方がホウリィ・ツリーと呼ぶと報道されていたのに耳を傾けたことがあります。
全ての国民や市民が信奉している訳ではないある特定宗教であるキリスト教の行事を象徴するツリーをその宗教を信奉していない人や異なる宗教の生き方をしている人に対して公的な場でそれを掲げることに対する配慮のある文化ということを知らされました。
無論、その国で今でもマイノリティに対する差別や偏見はなくなっていませんし、上記のような状況があります。しかし、無くなっていないからこそお互いが相手の立場を大切にする生き方を護ろうとしているのでしょう。
そういえば、2002年秋、カナダの東部地域で、公的な場ではクリスマスツリーと呼ばないという議決がされ賛否両論であったことが報じられていました。
また、先日ラジオで、アメリカのある地域では、「メリークリスマス」という挨拶が減ってきたそうです。代わりに「ハッピーホリディズ」が使われるようになったとか。
これは、キリスト教以外の方に、キリスト教を押しつけることなく、その他の信仰を尊重するためということだそうです。
9.11以降、排他的風潮がアメリカや世界に広がるばかりかと思っていましたが、市民レベルではボーダレスな取り組みや、思いやりが進んでいるようで、ホッとさせられます。
ところが、このハッピィ・ホリディズ、Happy Holidays!という挨拶ですが、あえて使わない仏教者もいます。
彼は、アメリカでの生活を通して、Merry Christmasという挨拶は、キリスト教徒に使います。それは、クリスチャンから仏教徒である自分が「花まつりおめでとうございます!」と言われたら、悪い気はしないように、お互い様だからだというのです。
Happy Holidays!は 文字通り、嬉しい、楽しいHOLYDAYSですが、キリスト教徒以外にはHOLY DAYSではありません。ということは、これもやはり、キリスト教中心の考えにすぎないというのです。
相手に対して考えているようで、実は自分の立場からの発想を一歩も出ていないなんて、まこと、凡夫の姿ですね。
お互いの姿を通して、自分が今、何によって自分として成り立っているのか、そんなことを考える季節の節目です。
そうそう、こういう時の挨拶は、
Season's Greetings(季節のご挨拶)
だそうです。
本多 静芳
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