1月25日の朝日新聞の家庭欄「お作法・不作法」というコーナーに、「近親者のみの葬式 どうする?」という記事がありました。最近、近親者のみで葬儀をするケースが増えてきていますが、葬儀のあと故人を知る人からの連絡が多く困惑したケースなどが紹介されています。
高齢化社会のなか、首都圏など都市部では、田舎からお年寄りを呼び寄せて同居する家庭や、仕事の一線から離れて暫くたつために関係者の少ない場合など、近親者での葬儀が増えています。ましてや、新興住宅地などは地域社会が確立していませんので、ますますその傾向が強くなっているのではないでしょうか。
また、無宗教の葬儀も増えてきているとのことです。葬儀自体が、極めて宗教的な行事ですので無宗教というのもおかしな話なのですが、現実には、葬儀になって初めてお寺を探すなどという状況ですので、やむを得ないことなのかもしれません。お寺も知らず一面識もないお坊さんに来てもらっても、通過儀礼としての意味はあるのかもしれませんが、もうひとつ意味がわからないというのも事実でありましょう。縁故もないところで頼むくらいなら、僧侶抜きでという気持ちもわからないではありません。
私の経験では、最近このような例も増えています。
ごく親しい友人と親族だけの通夜、会葬者はいませんので、住職と一緒に大きな声で正信偈を読みます。初めてでも次第に調子が出てきて、みなの声がそろい、お経が終わるとえも言われぬ充実感が残ります。お斎の席では、親戚のひとりが、「私たちも子どもの頃、おじいちゃんと仏壇の前でこの正信偈を読んだことを思い出した」と話していました。
むしろ派手なお葬式よりも、近親者にとっては宗教的な意味合いの上からも、本来の葬儀の姿に戻ってきているということが言えるのかもしれません。単に近親者のみの葬儀が良いということではなく、多様化することが良いことだと思うのです。
基本的に、葬儀は故人にとってだけではなく、故人とのご縁のある方々にとっても大切な儀礼であることを忘れてはならないことと思います。ひとの一生の間には、多くの出会いの歴史があるはずです。たったひとりで生き続けている人などいません。それぞれのご縁のなかで、関係者の惜別の思いが表出されるのが葬儀の場です。それは、多くは遺族に対してではなく、故人に対してであります。したがって遺族の都合のみで限定された人により葬儀を勤めることの是非は、判断の分かれるところだと思います。
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小林 泰善
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