最近のニュース 03.03.16 



イラクに対する
アメリカ政府の暴力的問題解決に反対する念仏者の思い


念仏者の立場は、「戦争に中立はない。反対の声以外は賛成の立場である」(『掲示伝道』本願寺出版社)と教示されています。

 世界で一番財力と軍事力を持つ国が、異なる宗教や文化を持つ国を「大量破壊兵器」を使って暴力的に短期間で自分たちの掲げるあり方に変えようとしています。

 近所の方々から、こういう時こそ、お坊さんが率先して戦争反対を掲げなければならないでしょうと言われました。その通りです。
 皆さんの多くが、戦争という方法による問題解決に反対されていることは、世論が物語っています。では、同じように戦争反対を掲げる私たち念仏者は、どういう姿勢を取っているのでしょうか。


 ・現実問題によって生き方を問われる教え

 親鸞さまの教えを生きた曽我量深(1875〜1971)師が、「自分は色んな本は余り読まない。もちろん、親鸞聖人(1173〜1262)のお聖教は読ませてもらう。もうひとつ、新聞を丹念に読む。何紙も新聞は読むのだ」と印象深い事を仰っていました。
 宗教者というと宗教書ばかり読んでいる印象を一般に持たれてますが、このお話は大変重要なことを伝えています。つまり、仏教や本願の念仏に生きることは現実問題との緊張関係を持つということです。つまり世間との関わりを断って閉ざされた安穏な世界にのみ関心を持つということではないのです。常に世間の人間のあり方から問いを頂き続けることこそ、人間を成就する真宗という生き方です。
 振り返ると親鸞さまの真宗という仏教は、社会のあり方、人間の営みに関心を持ち続けることで成り立ってきました。


 ・ワールドピースナウ 3・8

 2003年3月8日、全国で5万人以上の人が平和的な問題解決のためにアメリカ政府の戦争に反対する行動を起こした日でした。
 私は、念仏の行者、つまり念仏する行動者の立場から、念仏者として、門徒さんや僧侶の人びとと共に日比谷公園に集いました。その時の私のアピールです。
(詳しくは、http://peaceact.jca.apc.org/modules/news/article.php?storyid=94

 「殺してはならない。殺させてはならない」、また、「兵隊も武器もいらない」(『無量寿経』)という釈尊の言葉を頂くとイラクに対して暴力で問題解決することに悲しみや辛さを覚えます。戦争は、かけがえのない多くのいのちを殺し、殺させ、環境のいのちも破壊するからです。

 確かに、生まれた者は、老い、病み、必ず死にます。誰のせいでもありません。だからこそ、「やがて死すべきいのちの今、生きてあるは有り難し」という経典の言葉が実感されます。
 その私たちが、今ここにいるのは、今朝も目がさめたからです。当たり前でしょうか。いつか必ず目の開かない朝がきます。大変なことです。さて、目がさめるのが当たり前なら、目の開かない朝がくるのも当たり前です。また目の開かない朝がくるのが大変なことなら目がさめたことも大変なことです。私たちはこのように縁によって生きているという本当の事に目を塞いでいます。
 だから、本当は縁によって何をするか分からないのです。ところが人を殺すのは彼らで、自分は絶対に殺すはずがないという思い込みをします。
 オウム事件の時、破防法を適用して社会から抹殺しろという主張も自分は殺さないという思いからです。大変立派な意見ですが、私も縁に触れたら人を殺すかもしれません。

 韓国地下鉄火災で逮捕された運転手は、家を出る時、人を殺そうと思ったでしょうか。
 昭和の十五年戦争で、昨日迄、優しく穏やかな父や兄弟・恋人たち善良な市民が人を殺しました。私たちも殺してきたのです。私たちは殺せと言われたら殺す存在です。
 こういう事を言うとサリンで殺された人のことも考えろと言われますが、それなら同じように、天皇の名の下に殺された人のことも私たちはしっかりと考えなければなりません。

 自分の正義を主張して相手を悪・愚か者と決めつけたり、社会経済や自分の不安を神仏に身勝手なおねだりするのが変わらぬ人間の姿です。
 自分は間違いないという迷妄な人間と社会の姿を通して、どこまでも愚かな自分を見つめさせるのが真宗です。
 すると立派でないお互いが社会を形成しているという自覚から、かけがえのないいのちを損なう戦争や差別や政治的方法の愚かさが見えてきます。
 そして、私たちが作り出せる平和的な解決の方法を目指して声を上げたり、工夫をしていきたいといういのちの願いに生きていきたいという願いを頂きます。それが、念仏者としての私の取る行動です。


ワールドピースナウ3・8、日比谷音楽堂の様子。
法衣姿が、本多静芳。周りにいるのが、制服向上委員会の面々。
とにかく、会場5000人で満席。入れなかった3万5000人が音楽堂の外側にい
ます。
日比谷公園から4万人のデモが出発するのに、2時間半以上かかりました。
しかし、皆、帰る人もなく、静かに自分の出発を待っていたそうです。

 ・いのちの願い(本願)に生きる

 ブッシュ政権はイラクが武装解除しようが、国連安保理が武力行使を否決しようが、世界中が戦争反対のデモをしようが攻撃するつもりです。
 世界の人がこの武力行使はおかしい、間違っていると言って立ち上がっているのに、正義の戦いだと言います。
 世界各国で戦争反対に立ち上がった人々は、みな「この武力行使は、どこか絶対におかしい」と思い、身体中で感覚しています。日本人は、世界の人々に比べ、あまり反対の行動をしていないように見えますが、「この戦争はおかしい」と身体で感じているはずです。

 私は浄土真宗に生きるものです。浄土真宗とは極めて簡単な教えです。人間の心の一番奥底で、私たちに「真実に生きよ」と願い呼びかける続ける要求があります。それを「本願」とも言います。
 私たちは、その要求に目覚め、その要求をわがいのちとして生きようとします。それは、キリスト者であろうと、モスリムであろうと、何も信仰を持たない人々であろうと、誰にでも流れているものです。
 そのいのちの要求にうながされて、今これをお読みになったのです。いのちの要求は私たちに、「この戦争に対して、黙っていて良いのか」「本当に何かをしなくてはいけないのではないか」と、問いかけています。無宗教の人も、また仏教とは異なる信仰を持つ人も、同じように行動となります。
 それはその人々の「いのちの要求」が押し出し、促したものです。

 しかし、反対や抗議行動を起こしても、結局アメリカは戦争を始めるから、このような行動は無意味ではないか、自己満足ではないのかという人もいるようです。
 アメリカの武力行使に反対している人々は、自己満足のためではありません。また無意味でもありません。私たちはすべて、「いのちの要求」に促されてここへ集まり、そして行動しているのです。
 世界中の人々も同じようにいのちの要求に促されて、世界中で反対の輪を広げて、それが少なくともあなたを動かしました。決して個人の問題ではありません。
 私たちは世界中の人々と、今いのちが繋がっているのです。「いのちの要求」に押し出される時、「世をいとうしるし」となって一人ひとりの姿や方法は異なっても、「本願」に気づかなかった時とは違う生き方を恵まれるのだと思います。
本多 静芳