コラム 03.03.16



宗教は、はっきりわからない方が良い?

  先日、お通夜のお勤めのあと、このような話題になりました。

 「浄土真宗では、今日のように一緒にお経をあげることが多いのですか」
 「そうですね。住職の考え方ではありますが、うちの宗派では一緒にお勤めするようにしているお寺は多いと思います」

 そうしましたら、その向かいに座っておられた方が、
 「わたしのお寺でも、正信偈を一緒にお勤めします。ただ節が多少違いましたが」
 「宗派によって違いますからね。最初は戸惑っていても、終わりの頃には結構ついていけるものでしょう」
とお話ししましたら、みなさんうなずいていました。

 「でも、お経は難しい。読んでいても意味がさっぱりわからない」
 「まあ、それはいっぺん読んでわかるようなものではありません。でもその気になって調べればわかります。もともと人が使う言葉で書かれているのですから」

 たまたまいろいろな宗派の方がおられましたので、お経についての話題に花が咲きました。結論としては、みなさん自分の宗派のお経が一番良いということのようでした。
 そして、最後にその中のおひとりが、
 「私は、親戚にお寺が長念寺の家が数軒あるので、テレホン法話の本をもらって隅々まで読んでいます。でも、その中にどうしても納得のできないことがあります。靖国神社のことなのですが……。お経も含めて宗教は、あんまりはっきりわからない方が良いのかもしれないですね」
と、つぶやかれました。私にとって、その言葉が、非常に重く心に残りました。
 戦争を体験してこられた方々にとりまして、靖国への思いは、戦死した親族や戦友を通じて理屈を超えたものであることは承知しています。むしろそのために、戦後、信教の自由が保障されたにもかかわらず、多くの伝統宗教は、この件については、常にオブラートにくるんだような表現をしてきました。宗教者の方が、「あんまりはっきりわからない方が良い」という姿勢をとり続けてきたのです。なぜならば、そのようにしていた方が楽だったからです。
 私たちは戦時中の教団のあり方に対する反省を踏まえて、国の宗教や平和に関する政策に対して積極的に意見を表明しています。お互いに、触らない関わらないという姿勢をあらためて、まず、私たちのような考え方が身近にあることを認知していただくことを目標にしています。

 お経が難しいという話題から、いろいろなことを考えさせられた一日でした。

             小林泰善2003.03.16


戻る