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「微妙」という言葉で思うこと


  
先日新聞の投書に、最近の若者が良く使う言葉というものとして、「微妙」というものがあるという指摘があった。この投書は教員をしている方からのものである。確かに最近良く耳にする言葉ではないだろうか。その教員によれば、テストの手ごたえはどうかと聞かれても「微妙」。クラス替え後の新しいクラスの印象を聞かれても「微妙」と返ってくるそうだ。一言で済む手軽さ、そしてあいまいさという意味では、なるほど使用頻度が高くなるのもわかるような気がする。友達同士では相手を傷つけたくない、傷つけられたくないという心理が働くからであろうか、また大人に対しては、コミニケーション自体を放棄しているようにも思える。

 ショーペンハウエルは人間のコミニケーションにおける心のバランスについて、ヤマアラシのジレンマという表現を使っている。二匹のヤマアラシはおたがいが寒くて暖めあいたいと思っても、近づけば近づくほど、自分の針で相手を傷つけてしまう。この近づきたくても近づけない。それこそ微妙な距離に人は苦しんでいるわけである。

 今の世相は、傷つき、傷つけられることを避けるあまり、人と人との対話も少なく、心は孤独という傾向が強まっているように思える。

 しかし、現実社会に照らし合わせて考えれば、人と人とは傷つけあうこともあり、怒り、悲しみもおこりうるのが人の世の常である。それを回避するだけの人生は決して実りある人生とはいえないのではないだろうか。

 また、加えて「微妙」という言葉ですべてをかたずけてしまい、自分が本当はどう感じているのか、ということに目を向ける作業さえ阻害してしまっているように感じる。自分自身が見えなくなるということは、自分の人生において大切なもの、目標というものを見つける能力すら退化させかねないような気がするのである。

 最近、私はご法話の時に必ず、「せっかくお寺のいらしてくださったのだから、まず仏さまと対話をしてください」と申し上げている。そして「仏さまと対話するということは、ご自分を見つめるということです。今日はどんな気分であるかとか、今どんなことに関心があるのかとか。そして余裕がある方は、もうすこし広げてみて、皆さんの人生についても見つめてみてください。それから私のお話をさせていただきます」と。それらは少しでも自分を見つめていただきたいという思いからである。

竹柴 俊徳