私たち日本の社会では、信頼とか愛情の表現について直接的に口に出さないのが美徳とされてきました。地域社会とか家庭では基本的に相互の信頼があることが前提になっていますのでそのような姿勢が美徳とされてきたのだと思います。
しかし、無言が美徳とは言いましても、口に出さなければ相手には伝わらない場合が多いことも事実です。特に恋愛などはその最たるものです。ドラマなどを見ていますと背筋がぞくぞくするような言葉が目白押しに出てきます。
もともと信頼関係が成り立っているところに、その信頼を言葉に表すということは必要のないことです。不安があるからこそ、言葉や文書によってそのことを確認しなければならないのです。地域社会が成立しにくくなり、家庭が崩壊しつつある現在、大げさなことを言いますと、いちいち「あなたを信頼しています」という言葉から始めないと会話が成り立たなくなっていくのかもしれません。
そんなことを考えさせられたのは、国の教育基本法改正論議のなかで、愛国心についての論議がされているからです。私は、国を愛するこころのない者はいないと思います。外国で日本人選手が活躍するとうれしいですし、先だってサッカーの国際試合を見に行きましたが、みなで日本コールをします。べつに、私たちは愛国心教育をされたわけではありませんが日本が好きなことには変わりありません。ただし、それは時の政府に対する忠誠心とは違います。愛国心教育といいますと、なぜか国民に政府への忠誠心を強要する教育に思えてなりません。政府が国民を信頼できない国ほど愛国心が強制されます。北朝鮮の報道などを見ていますと、それを強く感じます。なぜここまで金正日を讃え続けるのか、真剣なだけに空恐ろしい気がします。忠誠心を口や態度で表現しないとその国で生きていくことができないということなのだと思います。
そのような考え方からいきますと、国が愛国心や忠誠心を強要しない国ほど、国家が国民を信頼している国であるという逆説も成り立つのではないでしょうか。学校教育の場で、愛国心を評価基準に盛り込むことが取り入れられてきているそうですが、恩を売るような教育は害あって益なしだと思います。
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小林 泰善
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