最近のニュース 03.06.16 



自死


●年間自死者数三万人を越える●
 自ら命を絶つ人が年間三万人を越えるようになって六年目になります。年間の交通事故死亡者数がここ十年間を見ると一万人前後であるので、この三万人という数字は異常な数字であることがうかがえます。また、この年間の数字は、自死と断定された件に限られている数で、実際の数はそれ以上であり把握されていないと言われます。
 昨年、自死ではなかったかと思われる方の葬儀をお勤めいたしました。その方のお婆さんは篤信なご門徒で、お寺の行事にはよく参加してくれる方でした。お婆さんをはじめご家族の悲痛な悲しみの中で、何と声をかけてよいのかわからぬまま葬儀は終わりました。宗教者としての己の無力さを痛感したことでした。

 自ら死を選択する人の背後には、社会との関わりのなか、環境の要因やこころの問題などが複雑に絡み合っていると考えられますが、自死する人を、防ぎ減らすことは可能です。しかし、治療や予防、そして理念だけで自死の問題を処理すべきではないことも考えておかねばなりません。この点を踏まえつつ、自ら死を選ぶ人が減り、悲しみ苦しむ人が一人でも減ることを願いとし、自死に関わる問題を考えていきたいと思います。

 自死にかかわる問題には、大きく二つの側面があります。まず一つに、自ら死を選ぶ人にたいする問題です。未遂で踏み留まった人の数は、自死者の十倍と言われています。つまり、自ら死を選ぶ人の問題は、年間自死者数三万人だけの問題ではないと言えます。もう一つは、未遂の人を含めて自死した人の周囲の人たちに関わる問題です。自死は、遺された家族や友人に「なぜ」という重い問いかけを残します。自死については、この二つの側面から見ていかねばなりません。



●死にたいと打ち明けられた時●
 生きているなかで苦しいと感じることは誰にでもあるのでしょう。ですから、「死にたい」と考えたことのある人は決して少なくないと思われます。もし「死にたい」と打ち明けられたらどうするか、人ごとではない問題です。自死は予防できるとする東京都精神医学総合研究所の高橋祥友さんは、打ち明けられたときの対応について、まず打ち明ける人は、信頼できる特定の人として選んでいることを念頭に置くことを指摘し、次の七項目を薦めています。
 @真剣に受け止め、訴えを充分に聴くA相談者の話題を他に移さないB相談者の批判、叱責は避けるC安易な助言はしないD「頑張れ」など価値観を押しつけないE訴えを聴いた後で自死以外の選択肢を話し合うF最後に専門医による治療を助言する
 七項目を見て、打ち明けられた人が徹底的に聞き役に回ることが大切であると感じます。自ら死のうとしている人の苦しみ悩みを受け入れ、共感していく営みがまず必要なのでしょう。つまり、自分の価値観や理念を押しつけてしまわぬよう、死にたいという人の気持ちに寄り添うことから始めなければ、相手の心に触れることはできないのです。
 さて、実際に打ち明けられたとき、何を言おうかと考えてしまうと思います。死を思い留まらせるだけの言葉をどれだけ持ち得ているでしょう。死をもってしか解放されないほどの苦しみを背負っている人にたいし、知識としての仏教の言葉や教えを伝えたところで、それらは空虚なものとなってしまいそうです。しかし、先ほど述べたように一番大切なことは相手に何かを伝えるのではなく、相手の心を聞くことなのです。言葉を探す前にじっと耳を傾け頷くことです。
 すぐには解決できない深刻な事柄でも誰かに話すことができたとき、前向きになれたという経験が私にも幾度となくあります。きっと誰でもがもてるそのような感覚を、打ち明けた相手に持ってもらえるかではないでしょうか。



●遺された人たちの苦しみ●
 十二才の一人息子が自死をした高史明さんは、「過去になっているはずのその日が、いまもまだ、突然、胸を締めつける苦痛とともに思い返される。この身に刻まれている震え、呻き、慟哭は、いつまでも生々しく消え去ろうとしない。」(*1)と、わが子の死に直面したこころの叫びを語っています。
 自死遺児たちを物心共に支えてきている「あしなが育英会」は、自死で親を亡くした子どもたちが、遺される家族の気持ちを知って、何とか踏み留まって欲しいという思いと、誰にも言えず誰も分かってくれないと思っている自死遺児に「ひとりじゃない」ことを伝えたいという思いで、文集を作りました。遺児たちは、「親の死のことは誰にも語れなかった」「自死とは言えなかった」と語ります。驚愕、呆然自失、自責、不安、怒りなどさまざまな感情に圧倒されてきた思いが伝わってきます。そして、自死にたいする考え方と社会を変えたいと遺児たちは願うのです。
 自死に関わる問題を考えるとき、遺された人の側面にも目を向けねばならないのです。



●おわりに●
 仏教の教えは、自死しようとする人にたいし全く無力かというとそうではないと言いたいのです。ただし、どの時点で仏教の教えが聞けていけるかは考えねばなりません。自らを傷つける行為に至る時には、精神のバランスを崩してしまっていると言われます。そうなってしまう前に、常日頃私のいのちを問題にしてくれる仏教の教えに触れ、聞いていくことが大切だと思われます。(*2)
 また、自死しようとする人や遺され苦悩する人に寄り添えるのは、こんな私でもあるのです。人の苦しみに寄り添える私であるために、いのちの尊さを離れては真実はないことを教えてくれる仏教の教えを聞き学んでいきたいと思うのです。


(*1)『いのちのやさしさ』高史明 筑摩書房
(*2)臨床心理学者のJohn Welwoodは、『The Psychology of Awakening』と題する論文の中で、心理的障害を抱える人にとっては心理療法で治療し、そうしたうえで仏教にのぞむことを指摘しています。


[本編は、『築地新報』にて2回にわたり掲載された原稿を元に、POSTEIOSのホームページ掲載のためにリライトしたものです]

宮本 義宣