子どもの痛ましい事件が続きます。 私たちは子どもに無垢な純粋さを求めています。 しかし、子どもは成長と共に大人を上回る速さで周りの情報を採り入れてゆき、それは一面、子どもが年齢に似合わず、おませをするアンバランスなかわいさでもあり、大人にとっても愛おしいことです。 ところが、悪い方にアンバランスな成長が顕れるとこれは深刻な問題となります。 いずれにせよ、子どもは良きにつけ悪しきにつけ、刻々と変わっていく社会の影響を受け、一番敏感な変化を見せるものといえるのではないでしょうか。
このように、子どもは社会の影響を真っ先に受ける。と考えると、子どもの事件は社会全体の問題です。
先日の『伊豆新聞』には「潮の響」の覧に、先の12才の少年の犯罪について、
「この事件は、単独犯とは思えない。共犯者は現代社会そのものではないか。この国にも良さがあり、いい人は大勢いるとしても、社会全体は冷たくゆがみ病んでいる。そこから目をそむけている間は、同じ事件が繰り返されると思う」
とありました。事件を単に家庭の問題、学校の問題ととらえず「現代社会こそ共犯者」という視点はとても大切だと思います。
さて、NIE.Newspaper in Education. 「教育に新聞を」と言う活動があり、学校で新聞を教材として採り入れることが行われていますが、私は新聞に限らず「ニュースとは私たちの先生である」と思います。
例えば、運転をしている人なら誰でも、事故になる一歩手前でヒヤッとしたことが何度もあった事でしょう。 私は交通事故のニュースをみると「もし、自分がそこにいたら同じ事故に遭ったかも知れない」とよく思います。 また、私の心の中に浮かんだ色々な悪いことを実行しなかったのは、私の心が良くて、事件を起こした人の心が悪かったとは言い切れません。同じ立場になっていたら同じような罪を犯していたかも知れません。
そう考えると、ニュースは「おまえも少し立場が違っていたら、こんな風になっていたかも知れないよ」と教えてくれる先生です。
ところが実際に、私自身が被害にあった方の立場になることや、戦禍にさらされたり、自分自身が戦争に行かなくてはならない人の立場になってニュースをとらえることはとても辛いことです。 それにもまして、私の子どもが殺されたり、私の子どもがこのような事件を起こしてしまったら、と考えることは自分のこと以上に辛いことです。でも、事件当事者の親御さんは正にその辛さの中に居るわけです。
ある子どもを持つ方が、
「自分の子どもがああいった形で殺されたら、殺した奴を自分が殺しに行く」と言っていました。 それが親の感情なのかも知れません。同時に、これほど不幸なことはありません。それは、人間が鬼になるということです。
そう考えると、これらの不幸を起こさない努力を私たち社会全体で怠るべきではないと思います。
それは「社会の一員として、私がどう行動したらよいか」と考えることではないでしょうか。
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遠山 博文
(2003.7.18 18:10放送 宝専寺テレビ法話『こころの教室』原稿)
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