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良心的軍務拒否と避難場所としての寺院


  「良心的軍務拒否と避難場所としての寺院」   「イスラエルのパイロット27人空爆拒否、民間人犠牲と」(9月26日付、朝日新聞)という題で反戦と平和を考える記事がありました。

「2003 年9月25日【エルサレム=久保健一】
 イスラエル空軍の予備役パイロットと元パイロットの計27人が24日、パレスチナ過激派を標的にした「暗殺作戦」が多くの民間人を死傷させているとして、空爆命令を拒否する書簡をハルツ同空軍司令官あてに送った。2000年秋の対パレスチナ紛争激化以来、陸軍兵士が占領地での兵役を拒否して投獄されるケースは増えているが、軍のエリートに位置するパイロットが集団で軍務拒否を表明したのは初めて。
 書簡で27人は、ガザ地区など人口密集地で行われている「暗殺作戦」は、一般市民の巻き添えを避けられず「違法で非道徳的」だとし、「無実の民間人を傷つけることを拒否する」と述べた。これに対しヤアロン参謀総長はしかるべき処分を行う考えを示した。
 「暗殺作戦」に関するイスラエル世論は、「自爆テロ抑止のため必要」との声も多いが、今回の拒否騒動で、作戦の是非についての議論が高まりそうだ。」(原文のまま)

 アメリカがその建国に関わり、しかも軍事費用をも支え続けているイスラエルで、軍人による軍務拒否は、色々なことを考えさせられます。
 反戦と平和を社会に訴えていく仏教の立場から、このことは大いに取り上げ、殺生を避ける生き方を目指して行きたいと思います。
 私が人を殺したくないように、兵士たちも無益な殺生をしたくないのです。釈尊は言われました、「殺してはならない、殺させてはならない」と。
 記事によれば軍務拒否をした兵士たちはしかるべき処分を受けるといいます。反戦と平和な社会を実現しようとする多くの人びととの繋がり合いが大切になってくるでしょう。

 もし、軍務拒否がこうした軍隊の中ではなく、軍隊そのものからの脱出を企てた場合はどうなるでしょう。
 今、国会では2001年10月2日に二年間の時限立法とした「テロ対策特別措置法案」が、さらに延長されようとしています。
 その中には、制限付きではあるが武器の使用が明文化されており、当然、殉職する自衛官が出ることが想定されています。

 殺されたくない、殺したくないとの思いは兵士でも同じはずです。納得できない戦いでは、軍隊から逃げてくる兵士もいるでしょう。
 今、「 兵士と共に反戦を!」の合い言葉で、「ブッシュのイラク先制攻撃戦争・占領支配に反対する立場」で、米兵・自衛官人権ホットラインが2003年6月15日から運動を始めています。
http://www.jca.apc.org/gi-heisi/yobikakebun.html

 「ブッシュの違法・非道・不当な戦争に参加させられる在日米軍基地米兵ならびに自衛官自身にとって直接な生命・生活・人権の問題について、兵士およびその家族からの身の上相談に乗り、耳を傾ける『人権ホットライン』の連絡センター」が開設されています。
 「兵士と共に反戦を!殺すな・殺されるな・殺させるな!良心的軍務拒否を!」という呼びかけに呼応し海外派兵に疑問をおぼえた自衛官が、組織を離れた時に、「自衛隊法」によって逮捕されることがない駆け込み寺のような役割を日本の仏教寺院が担うことができないものだろうかと考えます。

 三帰依文は、帰依という言葉が英訳されるとき、シェルターという言葉が使われますが、人びとの本当のシェルター、避難所としての仏教は、どうすれば成り立つのでしょうか。
 社会の営みを「そらごと、たはごと、まことあることなき」と突き放すのではなく、むしろ受け入れていく中で実践が生まれるのも仏教を生きるということだと思います。
 社会と関わっていく仏教、つまりエンゲイジド・ブッディズムとは、こうした社会のあり方と連携していくものではないかと思っています。


本多 静芳