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「拍手?それともお念仏?」


   お寺の行事の中で、拍手をしていいのか、お念仏を称えるべきなのか、参加者が迷っている場面にしばしば出会うことがあります。先日の千鳥が淵全戦没者追悼法要にお参りした時もそうでした。来賓のご挨拶や宗門校の生徒の作文の発表に対して、反応がほとんどなかったのです。お寺の行事では合掌してお念仏することが正しい作法であるとの認識が徹底しているためか、拍手をすることをためらっているように見受けられました。
 しかし、発表してくれた方々のご苦労を思うと、その願いに対してなにか返していくことも必要なのではないでしょうか。「おかげさま」「ありがとう」報恩感謝という言葉が、単なる儀礼的な言葉としてではなく、非戦平和のはじめの一歩として、生活の中に再生していくことが必要だと思うのです。
 
 そんなことを思いながら、ご門主の書かれた『朝には紅顔あり』を読んでいました。
 その中で「手間返し」について述べられていました。損得・貸し借り勘定ではなく、「大変なときはお互いさま」という気持ちで何度も助け合う村や集落の協力体制をあらわした言葉だそうです。「おかげさま」「ありがとう」どちらの言葉も関わることを粗末にしない言葉ですよね。そして、共に生きる「手間返し」の中で始めて気づかされる言葉であると思うのです。それは、何気ない生活の一瞬を粗末にしない営みではないでしょうか。

 戦争の現実の中で述べてくださったカンボジア大使の言葉、戦争について学び願いを持って発表してくれた生徒の作文には、たくさんの思いが込められていました。それなのに、式典の一部としてしか見ていなかった傲慢な私・・・。傲慢な自分に気づかされたとき、「おかげさま」「ありがとう」という言葉が、こころに「すとん」とおちました。

 共にあることを粗末にしないとき、私たちは、大きな気づきに恵まれるのだと思います。共にある中で、気づかせて頂いたからこそ、今度は、その気持ちを返していきましょう。直接本人に返せる時もあります。そうでないときもあるでしょう。多くの人々に、頂いた気づきを分けていくことが大切なのです。それが、私たちの生きる力、新しい気づきを生む力になると思います。
 
 「おかげさま」「ありがとう」報恩感謝の思いとは、一人で完結する言葉ではなく、私の気づきをみんなに返していくことではないでしょうか。法要に参加した私達の実践が問われているのです。まず、私達が、拍手なのか、お念仏なのかという自分で作り出す儀礼としての束縛から解放される事ではないでしょうか。




成田 智信 (2003.10.01)