先日ある方の通夜をお勤めした時のことです。 通夜のあとの食事の席で、「いつも(こういう場面では)どんなことをお話されるのですか」と質問を受けました。
そこで、「私は親も、兄弟も、連れ合いも、子供も亡くした経験がなく、お気持ちに本当の意味で共感した形ではお話ができないので難しく思っています」と正直にお伝えし、「むしろ、近親者を亡くされた方の悲しみの姿を見て、学ばせていただいてます」と申し上げました。 それに加えて「ただ、こういった場面には、小さなお子さんには是非、参列していただきたいと思っています」と申し上げまして、翌日、繰上げの初七日のお勤めのあとで再び、それらのことを含めたご法話をしました。
法要も終り、食事もご一緒させていただいてから帰ろうとしたところ、参列者の一人の方から、「先ほどの話で一つ質問させてもらっていいですか」と言われました。 ちょっと緊張しつつ、「はい、どうぞ」というと、「子供はこういったところに連れてこない方がいいと思っていたのですが、おっしゃるように、連れてきたほうがいいものなんでしょうか」と聞かれました。 私は、「はい、できるだけ連れてきてください。亡くなられた方のお姿は尊いものとして、また、死とは自然なことなんだということを学ぶ意味でも、また、大人が悲しみで涙する姿を見ることも、とても大切なことなのです」というと、「ええ、ええ、本当にそうですね。お葬儀とはそういうものなんですね、よい話を聞かせていただきました」と、思いもかけないほどの言葉を言っていただきました。
私は、いま大学での研究で、「対象喪失」関連の文献を調べているのですが、いわゆるグリーフワークやデス・エデュケーションといった言葉を目にします。つまり「喪失悲嘆からの回復」「死の準備教育」というものです。 そういった中で「宗教者に期待するもの」として、葬儀という場面における役割もいわれています。 それは、近親者を亡くされた方への心的援助はもちろんのこと、参列者の方々に「死」を見つめることの重要性と、死を通して見えてくる「命の尊さ」を学ぶ場を提供することです。
いわゆる、死の周辺の臨床的な学問は我々が一言で、「グリーフワーク」や「デスエデュケーション」とくくってしまうことからくるイメージをはるかに超えて、深いものだと思います。 それだけにさまざまなアプローチもありますし、一生涯かけて学ぶものだと感じています。そんな中、今回は葬儀をつかさどる側の人間として、大きな気づきをいただけた二日間でした。
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竹柴 俊徳
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