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おときの心
〜お念仏を中心とした食卓を〜


   「おとき」ってご存じですか。辞書を調べると「仏事の時の食事」という意味があるそうです。
 仏事の時と言われると何か「法事の時の食事のこと」と単純に思ってしまいますが、ちょっと心をよせながら考えてみたいと思います。
 私は「おとき」を阿弥陀様にいだかれた中にする食事と頂きたいのです。そもそも、このときは仏事、他の時は日常と勝手に決めつけているのは自分だと思うからです。
 阿弥陀様のさまたげのないお働きを思うとき、いつでもどこでも、「おとき」であったなとあらためて思うのです。いかがでしょうか。

 さて、先日我が家の食卓でこんなことがありました。ちょっと脚色しています。

《ある日の出来事》
長男が、今日の出来事をクイズにして出しました。

「今日は、何時に帰ってきたでしょうか。
    @ 五時 A五時四〇分 B六時」

みんなが手を挙げます。「はい、はい、はい、」

 長男「じゃ〜お父さん」

 父 「一番」

ちょっと当たり前のようにいうと

 「ピンポン・ピンポン・ピンポン」

 正解の音を言ってくれました。お兄ちゃんのマネをして、三歳の長女が保育園の出来事をクイズにしました。

 長女「めぐちゃんは、今日、お芋掘りに行きました。さあ、なんでしょう?」    

 これまたみんなで手をあげました。

    「はい、はい、はい」

 長女「じゃ〜お母さん」

 母 「お芋をほりました。」

 長女「ピンポン・ピンポン正解です。」

 なんとも、愉快な会話でした。特にその中で、めぐみの会話にみんなが心寄せてくれたことがうれしかったのです。
 お兄ちゃんのマネをしたつもりでも、会話としてはおかしいですよね。「さあ、何でしょう?」と言われても困ってしまいます。
 でも、そこでしっかり心寄せていく、頭の中でいろんな光景を想像しながら、手を挙げていくそこにとっても温かい体験をさせてもらいました。皆さんはどう思いますか。


《共感のこころ〜心を寄せていく》
 関わることに冷めていませんか?自分を振り返りながら思うのです。「客観的」「論理的」「冷静」そんな言葉を並べながら、関わること、人と共に生きることに冷めていないだろうか・・・。
 何気ない日常の一言を、「忙しい」という言葉で、切り捨てることになれると、知らない間に人と共に生きていくことに冷めてしまうのではないでしょうか。
 温かさってなんだろう。私は、共に生きる中で、善いことも、悪いことも、煩わしさの中で、共に受け止めていく、そんな中に感じていくのではないかと思います。関わることを粗末にしない。それが温かさではないでしょうか。

 子供達の会話を冷静に切り捨ててしまえば、つじつまのあわない、幼稚な会話なのかも知れません。
 でも、その中で、自分の枠を超えて、その子の思いに心を寄せていくとき、温かさが伝わるのではないかと思います。
 それは、お互いがホッと出来る瞬間ではないでしょうか。

 「おとき」のこころとは阿弥陀様に抱かれたお互いが、共に生きることを大切にしながら、頂くいのちを味わうことにあると思います。
 共に生きることを粗末にするとき、いのちを頂くという現実が見えなくなるのではないかと思います。
 「おとき」とは、日常の食事の中に生きる阿弥陀様のみ心を伝えようとする先人の歩みであったと思います。
 「おとき」のご縁を大切に頂きながら、共に生き、生かされるいのちを大切に普段の食事の中も「おとき」であったと頂きたいものです。



                            成田 智信