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コラム 03.12.16 



喪中 −年賀欠礼について−


 今年家族を亡くされた方は、年賀状を出さずに代わって喪中欠礼のはがきを出す方が多いようです。
 喪は、「喪に服する」と言われるように身内で亡くなった人があった時、それからある一定の期間その死を悼んで、華美なことをさけ謹慎することですが、日本では江戸時代の武家制度や明治初期には太政官令で服忌令があり父・母・夫なら13ヶ月、妻なら90日等細かく決められていました。
 これには、人の死は穢れであり自分についた穢れを人に移さないという物忌みという面もありました。

 しかし、現在の社会状況では喪に服するという意識も希薄になっているようですが、この年賀欠礼は多くの人がそれをしています。
 新年を迎えた、新しい年の始まりその喜びと希望は現代人にもやはり特別なときと受け止められています。だからこそ、喪に服しているひとはそこには関わらないように欠礼を出すと言うことでしょうか。

 さて、浄土真宗の教えを聞くとき、人の死は穢れであったり、その穢れが人に移るとは考えません。
 生あるものは常に死の不安と共に生きています。生きている不思議、生きていく尊さを、死という事実が教えてくれます。
 その一方、大切な人を亡くした悲しみは、お祝いなど晴れがましい場へでることを遠慮したいと感じることも自然な人の思いであります。
 また、大晦日と元旦では何が違っているのでしょうか。
 人がその生活の目安として月日を決めてその区切りを大切にしてきたことも理解が出来ます。しかし、いのちの不思議を思うときどんな一日もかけがいのない一日と過ごすことの大切さにも気づかされます。

 私の祖母が10年ほど前になくなったときは、欠礼状も出しませんが年賀状も出しませんでした。
 死は穢れではありませんが去年は一緒にいた人がいなくなった寂しさはありました。また毎年年賀状をやりとりする知人の中にもそのことを知っているからでしょうか「おめでとうとう」という賀状は遠慮されたようでした。
 私はそのお正月が過ぎたとき「今年のお正月は少し寂しいお正月でした」と”寒中見舞い”ををだしました。

 また、あるお寺からは「住職が往生しましたが死もまた我らなり、お念仏と歩む人生に穢れも物忌みも用としない、共に日々大切ないのちを生きていく」という旨の年賀状をいただきました。
 悲しみを持ったひと、そのことを知っている人、そのお互いが思いやる心で書かれたものであれば、喪中の欠礼状であろうと賀状であろうとその思いは届くと思います。



                            有賀 良雄