2003年12月16日、
築地本願寺において東京教区布教団主催の公開講座が開催された。 映画監督でドキュメンタリー作家でもある森達也氏を講師に迎え、映画「A2」の上演と森氏の講演、質疑応答の内容だった。
1996年4月以降、地域住民たちのオウムへの排斥運動が急速に激化し、住民票の受理を拒絶する行政も相次ぎ、施設を追われた信者たちの漂流が始まっていた。(略)一度は破棄された破防法より更に悪質といわれる団体規制法(オウム新法)が、圧倒的な世論を背景に成立間近となっていた。
(略)半ば不本意ながら始まった撮影は、信者と住民との軋轢がいちばん激しいと喧伝されていた地を訪ねたことで不意に加速する。マスメディアは決して伝えようとしなかったが、この地ではオウム排斥運動にかかわる住民たちと信者との間に、不思議なコミュニケーションが築かれつつあったのだ。
教団が巻き起こした凶悪な犯罪を深く憎みながらも、信者たちを人間として受け入れようとする意識が住民の中に芽生えていた。(略)それまでイメージでしか捉えていなかったオウムの信者たちに実際に接し、自分の子や孫と見比べてしまう住民の戸惑いや煩悶。そして「出家」の名のもとに社会と断絶したはずの信者たちも、住民たちの情に触れることで、再び社会と向き合うことを迫られていた。
(略)信者たちの内側にある矛盾、さらには社会の側に生まれはじめた「受容への萌芽」を「A2」によって鮮やかに描きだした。
森達也氏公式HPより抜粋
http://www.jdox.com/A2/index.html
「最近の事件は容疑者について『そんなことをする人には見えませんでした』と知人が語るケースが多い。
つまり我々と何ら変わらない普通の人だということ。普通の人が突然変わるという不安が社会に蔓延している。」
と森氏は語る。
「A2」を見て感じたのは、マスコミも反対運動をする住民も、オウム信者にある役割を演じ続けてもらわないと困るのではないか?ということ。
「自分とは違う異質な集団」でいてもらわなくては、自分の中の不安を解消するすべを失ってしまう。
彼らが自分と同じだと認めることは、自分も同じことをする可能性があると認めることになる。そんな漠然とした恐れを感じているのではないのだろうか。そのために、相手を知ってはいけない、人間として接してはいけないとブレーキを掛けているのかと。
しかし知ってしまった。人間として触れてしまった。そこに生まれる戸惑い…。
その戸惑いこそが、森氏の言う「受容」の根元なのかと思う。仮想敵を憎むことは易しいが、人柄を知って憎み続けることははるかに困難だ。
受容も共生もすべて自然に生まれる変革。それは相手とつながることから始まるのだと、この映画は教えてくれる気がする。そして、受容よりも憎しみの方が楽で、私たちは楽な方を常に選びがちだということも。
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照本さおり
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