1、元日参拝
小泉首相が正月一日、靖国神社に参拝した。2001年の自民党総裁選で「8月15日」の靖国神社参拝を公約して注目されたが、同年は8月13日に前倒して参拝。翌年(2002年)は春季例大祭の初日の4月21日に参拝。昨年(2003年)は「正月」を理由に1月14日に参拝。そして、今年は「初詣」と称して正月一日の元日参拝である。(『毎日新聞』2004年1月2日)
一国の首相が「正月だ」「初詣だ」と称して靖国参拝を繰り返している。小泉首相にとって靖国参拝は、自民党総裁選で約束したノルマの消化でしかないようである。元日参拝も違憲訴訟で争われよう。(『朝日新聞』2004年1月13日)
2、国立追悼施設は店ざらし
政府は6日、国立追悼施設の具体化に当分の間、着手しない方針を固めた。その理由として、@小泉首相が元旦に靖国参拝を済ませたため、当面は靖国問題が政治的な焦点にならない。A夏に参院選を控え、自民党の支持団体に反対論が根強い施設整備を具体化させるのは困難。B首相が施設整備後も靖国参拝の継続を表明しているため、中韓両国の反発緩和にはつながらない、などの判断によるという。(『朝日新聞』2004年1月7日)
まさに政治的判断である。姑息な靖国参拝を繰り返す小泉首相に、「国家とは何か」「戦没者とは何か」「追悼とは何か」などと説明を請うことも虚しいが、それにしても信念も見識も哲学もなき靖国参拝である。
3、宗教的信念の欠如
哲学や見識や信念が見られないのは、なにも首相や政府ばかりではない。
ある真宗僧侶は言った。浄土真宗本願寺派は「自衛隊のイラク派遣の即時中止」などの要請文を、たびたび総長名で首相に出しているが、その要請文には、真宗者としての哲学も見識も感じられない≠ニ。
かつて湾岸戦争時、浄土真宗本願寺派の平和論は、マルクス主義歴史観を前提とした旧態依然たる非武装中立論であり、その絶対平和の主張は、絶対平和にいたる道程や力の均衡による平和を捨て去ったあとの、たしかな保障が全く欠落した、保障を欠いた日本の非武装化と同じものであり、それは世界や社会を相手に発言し、説得する政治理論としては、あまりにも未熟であって、結局のところ、宗教的信念に基づいた哲学の無い、教団のアクセサリー以上のものとはなっていない≠ニ評された。
今回のイラク攻撃とその復興支援に対しても、ただ「自衛隊のイラク派遣の即時中止を求めます」との要請だけでは、またしても、本願寺派の平和論は宗教的信念に基づいた哲学の無い、教団のアクセサリー≠ナしかないと評されかねない。
4、要請文はアクセサリーではない
なぜ、本願寺派の要請文は真宗者としての哲学も見識も感じられない∞教団のアクセサリーでしかない≠ニ評されるのであろうか。
要請文には『日本国憲法』の精神に基づく「平和的外交」、親鸞聖人の「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」や「いのちの尊厳」「非戦・平和」に依拠した内容が述べられている。
思うに、要請文に述べられる「平和的外交」や「いのちの尊厳」「非戦・平和」という原理・原則は、誰も犯すことのできないものである。しかし、守らなければならない原理・原則に依拠した正論だけでは、実際の自衛隊のイラク派遣やアメリカの武力行使に対抗できないと考えている国民の心情に訴える力もないし、説得する力もない。だから、真宗者としての哲学も見識も感じられない∞教団のアクセサリーでしかない≠ニ評されるのではないか。
少なくとも、親鸞聖人の「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」や「いのちの尊厳」「非戦・平和」という誰も犯すことのできない原理・原則を語るだけでなく、アメリカの武力行使の背景にある、いわゆる「ネオコン(ネオコンサヴァティズム、新保守主義)」と対決する姿勢が要請文に語れてしかるべきであった。
5、ネオコンの主張
ネオコンは主張する。ヨーロッパには、もはや自らの領域内の紛争を自ら解決する能力はない。多国間の協調による非軍事的な手段による世界秩序の形成も大切だが、実際の国連の安全保障理事会は多国間主義を利用して、一国主義的政策を展開するフランスとロシアの利益追求の舞台になっている。冷戦後の国際秩序を維持する責任と能力はアメリカのみにある。@そしてアメリカの敵国は自殺攻撃をも躊躇しない相手である。だから、アメリカは自国の脅威に対して先制攻撃をかける権利を有する。Aアメリカは大量破壊兵器の開発を望んだり、自国民を残忍に扱う国の政府とは平和共存できない。だから、そうした国をリベラルな民主主義政体にするための政権変更に努力する。B今日、世界秩序を維持する責務を担える国は、無比の軍事力と経済力に支えられたアメリカだけである。だから、アメリカの指導力によって、世界中に自由の大義を広めるのだ≠ニ。(ロバート・ケーガン『ネオコンの論理』、ローレンス・F・カプラン、ウィリアム・クリストル『ネオコンの真実』)
親鸞聖人の「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」や「いのちの尊厳」「非戦・平和」に依拠して平和論を構築しよういう真宗者は、このネオコンの@先制攻撃、A政権変更、B民主主義の輸出を、どう考えるべきか。
6、「有情利益のためにとて、守屋の逆臣討伐せし」をどう読む
本願寺派の要請文(「自衛隊のイラク派遣の即時中止を求めます」2003年12月9日)には、「浄土真宗本願寺派では、宗祖親鸞聖人の『世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ』と願われたおこころを受け継ぎ、テロや戦争によって人間同士が互いのいのちを奪い合う行為を恥じ、一人ひとりのいのちの尊厳が大切にされる御同朋の社会をめざして、非戦・平和に向けたさまざなま取り組みを進めてまいりました」と述べている。
この「親鸞聖人の『世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ』」や「いのちの尊厳」「非戦・平和」を具体的に考えるとき、問題となるのが次の和讃である。
物部弓削の守屋の逆臣は、ふかく邪心をおこしてぞ、寺塔を焼亡せしめつつ、仏経を滅 亡興せしか。このとき仏法滅せしに、悲泣懊悩したまひて、陛下に奏聞せしめつつ、軍 兵を発起したまひき。定の弓と慧の矢とを、和順してこそたちまちに、有情利益のため にとて、守屋の逆臣討伐せし。寺塔・仏法を滅破し、国家・有情を壊失せん、これまた 守屋が変化なり、厭却降伏せしむべし。(『皇太子聖徳奉讃』)
この和讃から親鸞聖人は、用明2(587)年に聖徳太子も従軍した、蘇我馬子らによる「守屋の逆臣討伐」を否定していないことが知られる。
今日の真宗者から見れば、「陛下に奏聞せしめつつ、軍兵を発起したまひき」とは、まさに武力行使の容認であり、それは「いのちの尊厳」をさまたげ、「非戦・平和」にそむくものであると批判する人がいるかも知れない。しかし、親鸞聖人のこの和讃に示された聖徳太子観は、当時の仏教者としてはきわめて常識的なものである。
親鸞聖人滅14年後に出生した臨済宗の僧、夢窓疎石は、足利尊氏の弟、足利直義に「聖徳太子が物部守屋の大臣を討たれたのも、正法を流布させんがためであったから、少しの罪をも得なかった」と述べている。(夢窓疎石『夢中問答集』)
「有情利益のため」の「守屋の逆臣討伐」という武力行使を容認した親鸞聖人は、釈尊の「殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(中村元『ブッダの真理のことば 感興のことば』)との聖句を忠実に実践しようという、絶対平和主義者ではなかった。
7、避けて通れない教学的課題
私は要請文にある「親鸞聖人の『世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ』」や「いのちの尊厳」「非戦・平和」という原理・原則を否定するものではない。また、今日的価値観をもって鎌倉時代に生きた親鸞聖人を批判しようというのでもない。
そうではなく、親鸞聖人の「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」や「いのちの尊厳」「非戦・平和」に依拠した要請文を、その実あらしめるためには、そこには避けて通れない課題があることを指摘するだけである。
たとえば、〔1〕「非戦・平和」の根拠や絶対平和主義の根拠を、親鸞聖人の宗教的信念に求めようという発想に依拠した運動論は、自らは「守屋の逆臣討伐」のための武力行使を容認しつつ、政府には「非戦・平和」に立った「武力行使を伴わない平和的解決」を要請するという、一種の矛盾構造(ダブル・スタンダード、二重基準)を孕むことになる。真宗者は、この矛盾構造(ダブル・スタンダード、二重基準)をどう考えるべきか。
さらに、〔2〕もし、親鸞聖人の「有情利益のため」の武力行使を積極的に肯定するのではなくとも、「守屋の逆臣討伐」を必ずしも否定できない立場から、先のネオコンの@先制攻撃、A政権変更、B民主主義の輸出は、容認されるのか否かが問題となる。
8、宗教的信念と「独裁者暗殺」
まず、「有情利益のためにとて、守屋の逆臣討伐せし」を必ずしも否定できない立場から、ネオコンの@ABの主張は容認されるのか、否か。
今、この課題を、プロテスタント神学者のカール・バルトの『教会教義学』における「独裁者暗殺」の議論を参考に考えてみたい。
バルトはいう。
国家共同体の生は、ただ外側からばかりでなく、また内側からも、おそらく一人の特定の悪しき人物によって脅かされることがある。この人間は国家の権力を不当に掌握したのかも知れないし、あるいは、合法的なやり方でこの権力を不当に行使することもあるかも知れない。とにかく国家全体とそれに属するすべての成員が、取り返しのつかぬ破滅に瀕せしめられているとする。そういう場合、合法的手段で彼の悪しき業をやめさせ、彼をその危険な地位から追い払うことが、どうしていけないはずがあろうか。だが、この損なわれた法秩序を立て直すための主導権を持つべきはずの直接責任者たる裁判所が無力化し、その意志もなくしてしまったような場合には、どうなるのか。その場合、国家の階層の下級に属する誰かが、全体を救うために、彼個人の責任において、あの独裁者を殺してはいけないのであろうか。そういうことが許されるばかりではなく、しなければならないことが事実上ありうるのではないであろうか。これは仮構の問題でも、何か大昔の問題でもない。ブルータスやウィルヘルム・テルのことはどうでもよろしい。つまり、われわれ自身の時代ではこのことは、1938年から1944年の間に、ドイツではアードルフ・ヒトラーという人物に関して、単に二、三の人々に止まらず非常に多くの人々に、部分的にはキリスト者として真面目な考えをもつ人々にとっても真剣な問題となり、そしてそれは理論的にどうしてもしなければいけない(ヒトラーの暗殺・池田注)という結論になったのである。ルター派の神学者、ディートリヒ・ボンヘッファーはこの群れに加わっていた。彼は、その福音理解に基づいて、もともとは絶対平和主義者だった。だが、この問題には積極的に対応したのである。(中略)この驚くべき形式の死刑(独裁者暗殺・池田注)が、神によってある人間には命じられることがある、ということは議論の余地がない。そしてその場合は、このような行動が神から命じられたものとして認識されるならば、ほとんど孤立無援の状態であっても(実際は聖徒の交わりにおいて)断固として行わなければならない、ということもまた、議論の余地はないのである。(カール・バルト『キリスト教倫理V』新教出版社)
バルトはルター派の神学者、ディートリヒ・ボンヘッファーを例に挙げ、「独裁者暗殺」が神から命じられたものとして認識されるならば、断固として行わなければならないという。
アメリカのブッシュ大統領は2001年1月29日の年頭教書で、「悪の枢軸」の構成国としてイラク、イラン、北朝鮮の三国を名指しで批判し、その後、2003年12月13日、イラクのサダム・フセイン元大統領はアメリカ軍によって身柄拘束された。
「独裁者暗殺」を容認するバルトの福音理解からすれば、ネオコンの@先制攻撃、A政権変更、B民主主義の輸出の、少なくとも@Aの二つは是認されることになろう。
9、ダブル・スタンダード(二重基準)をどう考える
マックス・ヴェーバーは、政治は「道徳的に危険な手段」を不可欠とするものであり、こうした手段の行使に倫理的立場から躊躇する者は、政治に携わるべきではなく、もし、あえて政治に関わろうとするならば、そのことが自分の「魂の救済」を危うくするのではないかという、畏れの意識を常に保ち続ける必要があると論じた。(マックス・ヴェーバー『職業としての政治』)
その意味において、宗教者は「魂の救済」のみを語り、自己の宗教的信念からの原理・原則のみを主張しているだけであるならば、バルトの「独裁者暗殺」など一考する必要もない。しかし、もし宗教者が「道徳的に危険な手段」(たとえば独裁者暗殺)に無関心をよそおうことが出来なくなったとき、真宗者ならばどうするか。
本願寺派が本気で、世界や社会を相手に発言し、説得する政治理論≠フ構築を考えようというのであれば、「いのちの尊厳」や「非戦・平和」という、誰も犯すことのできない原理・原則を語るだけでなく、「道徳的に危険な手段」(たとえば独裁者暗殺)にも与すべき覚悟が求められる。はたして、この求めに応える覚悟と教学的営為は可能なのか。宗教的信念と武力行使に関する、今日的な課題がここにある。
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