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教育 04.02.01 



日本の教育の行く末


   2004年01月10日(土)付の朝日新聞に
 「保守色嫌った公明党 教育基本法改正見送り 文科省、先送り機運も」と題する記事が掲載された。「教育基本法」の見直しが求められ、文部科学相の諮問機関「中央教育審議会(中教審)」がその方向性を検討してきた。ここへ来て、「教育基本法」改正が棚上げになる見通しだ。教育基本法は1947年に制定され、戦後の日本の教育理念の基となってきた。そしてその目的は、民主的で平和的な社会を築く教育の実現だと言われている。

 今回の「教育基本法」の改正について、次のような論点で前述の新聞記事では整理されていた。

■教育基本法に関する「論点整理」(概要)
 「与党教育基本法に関する協議会」が9日公表した「論点整理」の概要は次の通り。
◇おおむね異論がない点
 ・「前文」に「国際性」「公共の精神」の記述が欠けている。
 ・「教育の基本理念」は目指すべき人間像を羅列的に示すより、真に重要なものに絞って簡潔に規定すべきだ。中央教育審議会の答申で示された基本理念のうち「生涯学習」「社会の変化」「職業生活」「男女共同参画」の項目は基本理念と性格が異なる。
 ・「義務教育」について中教審答申が「9年間が適当」としているが、現行の6・3制に手をつけないことを意味しているのではない。就学年齢や学校区分は学校教育法改正も視野に入れ、中教審で議論すべきだ。
 ・「男女共学」は定着しているので規定を削除しても構わない。
 ・「学校」の役割を規定する。高等教育、私学の重要性も盛り込む。
 ・「教員」が果たす役割の重要性を踏まえ、規定をいっそう充実させる。
 ・「家庭教育」で親の自覚や責任を規定する。学校、家庭、地域社会の連携・協力の規定が必要。
◇対立点
 ・「国を愛する心」の規定
 愛国心は家族や郷土を愛する心の延長線上にあり国際人として不可欠な要素で規定すべきだ▼統治機構を愛する内容まで含むこととなるので伝統・文化の尊重と郷土愛を規定すれば十分。
 ・「宗教教育」の記載
 宗教的情操を涵養(かんよう)することについて規定すべきだ▼信教の自由を侵すことにつながるので現行条文を変えるべきでない。


 さて、対立点となった、@「国を愛する心」の規定とA「宗教教育」の記載については、私たち宗教者にとっても重要な問題であると考えている。2002年の11月に中教審の「中間報告」が提出された折り、私が築地本願寺より発行されている『築地新報』2003年1月号に「『教育基本法見直し』を考える」と題して拙稿を掲載させてもらった。一年前といまの思いは変化していないので、あらためて衆目となれば幸いと考え、下記引用させていただくことにする。


●日本人としてのアイデンティティー「国を愛する心」●
 中間報告では、国際社会の一員として、日本人としてのアイデンティティーを、「伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する心」として持つことの重要性が明記されました。このことが国家至上主義的な考えや全体主義的なものにならぬようにと一応は釘を刺しています。
 中教審の中間報告のなかでこの部分だけが浮き上がっているように自分には感じます。いわゆる「愛国心」をことさらに言わねばならない状況を感じているのは、誰なのであろうかという疑問が湧いてくるのです。
 アイデンティティーの定義には、諸説あるにせよ、「自分意識」が揺さぶられる状況のなかから生まれてくるものだと思います。自己レベルでは、「自分とは何なのか」「自分の生きがい」といったものであり、そして広くは家族や会社や学校、そして社会や国のレベルの所属意識と言ってもよいのでしょう。社会のなかでどこかに所属していることへの愛着は多くの人が感じることであって、自然と養われるものではないでしょうか。中教審が求めているものが、「自虐的な歴史観」にたいする反動から生まれてきた発想、あるいは、いまの子どもたちが「国を愛する心」を失っているからという発想から導き出されたものであるならば、やはり基本法に「国を愛する心」をことさらに明記することに違和感を感じます。
 また、アイデンティティーは、自分で選択したいという意識とともに自然に育まれるものであるといわれます。教育が画一的であるという批判のなかから、「新しい時代の教育の基本理念」として今回の見直しがなされるのなら、社会全体の構造的変化や価値的変化によって自分を見失いかねない子どもたちの、自ら選択することによって生まれてくる自己のアイデンティティーを大切に育てるべきでしょう。「中間報告」の他の部分に見られる「個人の尊厳」「人格の完成」という方向を台無しにしてしまう感があります。もし、自己のアイデンティティを個々に持てるようになった時代変化の中で、為政者がコントロールしきれなくなった若者への危機感から生まれてきたのであれば、見誤ったことに思えます。
 親鸞聖人が、一二〇七年に法然上人と共に流罪になった時のことを回想して、「主上臣下、法に背き義に違し、忿(いか)りを成し怨みを結ぶ」(*1)と記しています。親鸞聖人は、後鳥羽上皇も時の重臣たちも、何が正義かわからなくなり、真理を見誤ったと憤りをこめて記しました。そして、その時「僧にあらず、俗にあらず」という自らのアイデンティティーを確認したのかも知れません。親鸞聖人のこの精神を今に生かそうとすればそれはどうすることかを考えたいのです。その作業は、いま親鸞聖人から学ばねばならないのは、親鸞聖人のことばを一人の人間のことばとして捉え直し、人間を取り戻そうとした生き方を学ぶことだと思います。
 
●宗教に関する教育●
 「宗教に関する教育」という一項目では、「様々な意見が出されたが、意見が集約されるには至らず、憲法の規定をする信教の自由や政教分離の原則に充分に配慮しながら、引き続き検討していく」としています。
 「宗教に関する教育」についての論義では、賛否両論の激論が交わされたことが報道されています。しかし、結果は「宗教に関してはわからない」「遠巻きにしておこう」ということのようです。
 何年か前、野坂昭如さんが筑紫哲也さんとのテレビ番組の対談で、概ね次のように話していたのを思い出します。「私は、戦争という体験のなかで、精神構造をズタズタにされた。宗教ということが正しく理解できなくなってしまった。これからの若い人たちには自分のようになってはいけない」と。「宗教に関する教育」についての論義が、「畏敬の念」を教えることが必要かどうかの論義だとするならば、焦点のずれた論義のように思います。さらに、「宗教を教える」という内容が、「神仏に恐れを抱くこと。善悪を得ること」を教えることとするならば、危惧せずにはおれません。
 自分のこれからの課題として、教育とは何か。宗教とは何かを問うことで、人間とは何かを学び、自己のアイデンティティーを確かめていきたいと思います。

(*1)『教行信証』後序 浄土真宗聖典(註釈版)p.471



                            宮本 義宣