●靖国訴訟・大阪地裁の経緯
二〇〇一年八月の首相小泉純一郎の靖国神社参拝は憲法の「政教分離の原則」に違反しており、旧日本軍人・軍属の遺族、戦没死した韓国人遺族、そして宗教者ら六三一人が精神的苦痛を受けたとして、国と首相、靖国神社を被告にして、原告一人あたり一万円の損害賠償や違憲確認を求めた訴訟の判決が、二月二七日大阪地方裁判所で言い渡され、国側の勝訴となりました。
同裁判長村上寛は「参拝は首相の資格で行った」と指摘し“公的性の参拝”であることを認定した上で「原告が宗教上の不快な感情を持ったことは理解できるが法律上保護された具体的権利を侵害されたとはいえない」として、憲法判断に踏み込まないまま損害賠償請求を棄却し、違憲確認を却下しました。
首相小泉は、大阪地裁に提訴があった〇一年一一月、記者団に「おかしい人がいる。話にならんよ」と暴言を吐きました。これに対し原告の一部が「名誉を棄損された」と首相と国に損害賠償を求めて提訴し、大阪地裁は〇三年九月「発言に配慮に欠ける点があったことは否定できない」と指摘しながらも訴えを退けるという経緯のあったいわくつきの裁判でした。
●何が問題点なのか?
現在、首相小泉の靖国参拝を巡り松山、福岡、東京、千葉、那覇でも係争中ですが、判決は初めてでした。
〇一年八月一三日、首相は公用車で同神社へ参拝、「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し、献花料を私費で払いました。裁判では、@参拝は私的か公的か、A参拝は公人による特定宗教への関わりを禁じた憲法に違反するか、B公的参拝により故人の死を静かに偲ぶ「宗教的人格権」が侵害されたか、が主な争点でした。
私的参拝と主張する原告側の主張は退けられましたが「宗教的人格権は法律上、保護された具体的権利とは認められず、原告らの権利ないし利益が侵害されたといえない」と裁判長は述べています。
官房長官福田康夫は同日の記者会見で「私的参拝という国の主張が認められなかったのは遺憾」と指摘、同時に「(公的参拝とも)断定してもいないのではないか」と抗弁しています。もし公的参拝と認めてしまうと憲法二〇条が定める政教分離の原則に抵触してしまうからでしょう。
首相は同日「もともと、なんで私が訴えられるのか分からない。私が靖国神社に参拝して、どうして被害を与えたのか。だから、(訴えは)退けられているでしょ」と判決の感想を語り、靖国参拝が公的か私的かについてはやはり言及を避けたそうです。
しかし「公用車を使ったり、秘書官が同行するのは首相であれば当然。公的とか私的とか区別できない」という官房長官の釈明は逆に「私的参拝」という主張が非常に曖昧な根拠でしかないということになります。
●宗教と国家〜真宗信心という生き方
私たち真宗の教えに生きる者にとって特定の宗教に国が関わることを禁じた憲法二〇条は非常に大切です。もちろん、政教分離原則は戦前・戦中、国と軍部によって国家神道が強制され、人びとの精神的自由を蹂躙し、天皇を頂点とした国家主義を押しつけられた経緯を踏まえて保障された人権の一つです。
「国のために戦死した者を国が祀ってどこが悪い?」というとき、穏やかな顔で相手の言葉を受け止めながら宗教という人間の生き方を見つめる態度は生まれにくいようです。
宗教とは一つの教えを聞き届け、それを生活の基盤として生きていくことです。法然上人は専修念仏といい専らに念仏を選び修める生き方は他の行を選び捨てることと示されました。親鸞さまはこの念仏を真実の教えと受け止め、唯、信心をもって人間を変革・完成する生き方は民族宗教である神祇を拝まないことだと明らかにされています。念仏一つで自分の愚かさに気づかされ、真実を明らかにされたのです。
今、日本は戦前のように宗教を強制されることなく宗教を選んで生きる「信教の自由」が憲法で保障されています。世の中には様々な宗教があり、それを信じる人がいます。しかし、どんな宗教を信じてもいい自由があるということは同時に、どんな宗教を信じなくてもよい自由ということでもあります。
宗教は具体的に個人の思想・信条につながる領域のことです。それに他人や国家が土足で踏み込むことは人間の自由を奪います。ですから、政治的に影響の大きい首相・官僚、天皇などが特定の宗教法人に公的な関わりを持つことや公金を用いて参拝することが「政教分離原則」の憲法で禁じられているのです。
一宗教法人である靖国神社の宗教活動やそこに参拝したい人の参拝は法的に問題はありませんが、首相の公的参拝は憲法違反です。
しかし、念仏者の私は、人殺しによって問題解決を図る戦争を遂行するために作られた靖国神社に参拝する気持ちは全くありません。また信じたくない宗教施設に、念仏者が自分の信条と異なる祭神として祀られることも耐え難いことです。
●「世の中安穏なれ」の名乗り
たまたま同二七日はオウム真理教代表の東京地裁判決がでました。もし貴方の家族がサリンで亡くなったとします。その人をオウム真理教がサティアンという宗教施設に神様として祀ってやると言い出したらどう思うでしょうか。国によって殺された人を一方的に神として祀るとはどういうことでしょうか。
首相は「発言に配慮に欠ける点があったことは否定できない」と地裁に指摘されましたが、配慮に欠けていたのでしょうか。「なんで私が訴えられるのか分からない」という発言から分かるように配慮そのものが出来ない人格を私たちは首相に選んでいるのではないでしょうか。そして、宗教問題を曖昧にしている私たちの意識がもう一度問われるのではないでしょうか。
私たちの教団の僧侶で、この靖国訴訟の原告団長の菅原龍憲さん(63)は「(参拝は)太平洋戦争を聖戦として肯定する行為」だと批判をしています。また三月一六日に松山地裁で判決を控える四国訴訟の原告団長、釈氏(きくち)政昭さん(60)は「もう一歩踏み込んで憲法判断をすべきだ」と話をしています。
「参拝は私的なものだった」という国側の主張を否定したこの判決は、今、凍結中の戦没者らの国立追悼施設設置論議にも波紋を広げるかもしれません。今後、各地で係争中の判決によって、公明党から政教分離原則を訴え、検討再開を促す声が強まりそうです。
自衛隊派兵など新たな殉職者を生み出しかねない状況の中で「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」という親鸞さまのお言葉に、さて私は一体何をより所に生きているのかと考えさせられます。
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本多 靜芳
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