この事件を語る上で、仏教者として何を語らなければならないのか、時として途方にくれる。
松本智津夫被告は最終解脱者を名乗り、その教えに仏教の教義を取り入れていた。
15年程前にオウム真理教という宗教を目にするようになった頃、私はといえば僧侶になることに抵抗を感じていた時期であった。 そんな折に原始仏教さながらの出家生活を送るオウム真理教という宗教教団、とりわけ多くの若者の姿に少なからず興味を持っていたことを思い出す。
いま現在、私は仏教の教えに生きる仏教徒である。その立場から、今回、教団の指導者であった松本被告に東京地裁から死刑という判決が出されたことを受けて、いま一度「仏教」について考えてみたい。
私ごとであるが、昨年11月に京都の西本願寺の正面にある本願寺会館で行われた研修会に参加した。
この研修に参加したことは、私の仏教に対する一つの答えを得られるものであった。
「『いのちをみつめて』−教育の現場から−」と題されたその研修会では、命の教育「ニワトリからの贈り物」というビデオ鑑賞をしたのち講演を聴かせていただいた。 講演をされた高尾忠男さんは、つい最近退職されるまで農業高校の教師をされていて、高校では農業実習というものがあり、その実習はいわゆる飼育技術、解体技術を学ばせるというものであった。 生徒は、鶏を飼育し、配られた鶏肉を解体する技術を身につけるのだが、授業は臭い、汚いといった言葉や、笑い声の中で行われていたそうである。
高尾さんは、そういった授業風景や、ここ数年の命を軽視する現代社会の風潮に危機感を感じ、平成8年から、それまでの単なる技術目的の実習から、卵をかえす⇒飼育⇒命を絶つ⇒解体⇒試食という内容に変えたのである。
いわゆる、愛情をもって卵から育てたニワトリを自らの手で命を奪うという授業にしたのである。 ビデオでは、愛着をもってしまった鶏を押さえ、泣きながら、その命を奪う生徒達。嗚咽、なかには過呼吸で倒れる生徒もいた。
おそらく、この説明文を読んだだけでは、拒絶反応を示されるかたもいるだろう。私も、正直いうと「これは教育というレベルを越えすぎているのでは」と思いもした。
しかし、「人間とは」「生きるとは」というものを考えた場合、それはまさに、この授業で行われているものが、そのまま一つの答えなのではないか。
この授業のビデオを見たあと、一つのことに気づかされた。
それは、仏教では「生老病死」という四苦を掲げるが、この生徒達が受けた苦しみこそが「生」の苦しみなのではないかということである。
今まで、この「生苦」について、いろいろな方の説明を聞いたり、読んだりしてきたのであるが、どうも自分の胸にすとんと落ちるという気がしなかったのである。
しかし、この研修を受けて、「あぁ、人間は自分が生きるためには、ほかの生き物を殺さなければ生きていけないんだ」と改めて感じ、「生きていくためにほかの生き物を殺すという苦しみを持っているのが人間なんだ」と感じたのである。
釈尊伝にも、「四門出遊」(老い、病気、死の苦しみと出家者の道)の前に「樹下思惟」(生き物はなぜ互いに殺しあわねばならないのか)というものがあるではないか。
そうすると、仏教の掲げる「不殺生戒」というものもおのずと、その意味するところが見えてくる。
「殺生をするな」しかしそれは、生きていく以上不可能なことでもある。当然そこには「殺さなければ生きていけない」という深い自覚と悲しみを促すものである。
そして、その悲しみは殺生の肯定に向くのではなく、全ての命への深い洞察となり慈しみの心へと転ずる。
「苦」の自覚は仏教の根幹である。とりわけ「生の苦しみ」は他の命との関わりを見つめずにはおかない。
「ごらんなさい 世界は 生きとし生けるものは こんなにも美しい」
それは全ての命に対する慈しみから感じられるものである。
松本被告は仏教の教えをどのように理解し大量虐殺に及んだのか。
しかし、われわれもテレビをつければ「蝿」や「蚊」や「あぶら虫」が殺虫剤で大量虐殺される姿を当たり前のように、そして時として笑いとともに見てしまっている。 釈尊の教えの前に立つとき、仏教者はこの矛盾にどう答えていくのであろうか。いままさに試されている。
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竹柴 俊徳
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