鉄道のホームから全てのゴミ箱が撤去された。屋外ホームにある空き缶入れも蓋がしてある。茫漠としたテロへの不安が東京中のゴミ箱に蓋をし始めた。
同じこの時、遠いパレスチナの地が、また大きく揺らぎ始めている。とはいえ、既に50年以上も難民生活を強いられ、「テロ殲滅」の名の下の攻撃・侵略・封じ込め・囲い込み・・・・・枚挙にいとまない嫌がらせを受け続けている人々が、今更揺らぎ始めているなどと言うのは言葉足らずかもしれない。 繰り返される「和平の合意」に「入植地撤退」これらの言葉を耳にする度の、今度こそは平和への第一歩が踏み出せるかとの期待は、いつも蜻蛉のごとくにはかなく消え去り、閉ざされ抑圧された生活に戻っている。 どんな言葉も聞き飽き、何にも動じなくなってしまう。もしくは緊迫感は徐々に高まり、発火点を超えるぎりぎりのところにまで追いつめられているのかもしれない。
そして去る3月22日、パレスチナ難民の精神的指導者であり、ハマスの創設者である、アハメド・ヤシン師がイスラエル軍によって暗殺された。またその後にも、パレスチナ人による報復を恐れたイスラエル軍は、ガザ地区へ侵攻した。
今、パレスチナの人々がどんな思いでいるのか想像して欲しい。
宗教的リーダーであり、パレスチナの抵抗と独立を願って活動してきたリーダーは、モスクからの礼拝の帰途、爆撃を受けて殺された。 イスラエル兵に小突かれ、罵倒される生活を送り続ける中、今、心の師まで「暗殺」された。そんなパレスチナの人々の心を想像して欲しい。
また多くの命が無駄になくなるのだろうか。 パレスチナ人が報復に出れば、それを逆手にとるイスラエルがパレスチナ人へを暴力で押さえようとする。加害者が加害者としての立場をよそに、被害者としての立場を強調する。 なぜか、なぜか世論というのは弱者が被害を受けることは当たり前に扱い、強者が被害を受けることをさも珍しいことのように大げさに扱うものだから(9・11が良い例)、いかにも暴力の連鎖を弱者が助長しているがとくに思われる。 しかしこれは、暴力の連鎖というより、強者が弱者の抗いがたい行動を利用しているに過ぎず、弱者の抵抗は「テロが横行している」の一言で存在全てまでを否定されてしまっている。
とにかく、このままではパレスチナ人もイスラエル人も犠牲を払い続ける。
そして、日本に住む私たちも目に見えないテロの存在に怯え始めている。 世の中を横行している「テロ」の言葉に踊らされ、何がテロかも見極めないまま、ゴミ箱に蓋をし続けている。 日本が対テロ戦闘に荷担しているのだから、テロからの「報復」に怯えるという図式だろうか。 だったら、何をすべきなのか?日本社会に生きている私が心を脅かすものは何かを見極めなければ、恐怖心からは解き放たれない。 そして、それはパレスチナの人々が置かれている状況を想像し、彼らにとっての平和な社会を想像することから見えてくることだろう。
そして問い続ける。私たちが閉じているのはゴミ箱の蓋だけか?
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松本 智量
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