1、小泉首相の靖国神社参拝は違憲
2001年8月13日の小泉首相の靖国神社参拝は政教分離を定めた憲法に違反するとし、九州・山口の宗教者や市民など211人が、小泉首相と国を相手に精神的苦痛を受けたと損害賠償を求めた訴訟の判決が、4月7日、福岡地裁であった。
亀川清長裁判長は「参拝は公的なもので、憲法で禁止された宗教的活動にあたる」と述べ、違憲と断じた。
判決骨子は以下の四点である。
@小泉首相の靖国神社参拝は内閣総理大臣の職務の執行に当たる。
Aこの参拝は憲法20条3項が禁止する宗教的活動に当たり、同条項に反する。
Bこの参拝は、原告の信教の自由を侵害したものとはいえない。
C原告の利益の侵害があったとはいえず、不法行為の成立は認められない。
小泉首相は7日午前、首相官邸で記者団の質問に「勝訴でしょ、私の。(違憲判断については)わからないですね。(歴代首相の年始の参拝が恒例化している)伊勢神宮(参拝)も違憲? おかしい。なぜ憲法違反か、わからない」と強く反発した。 (『朝日新聞』『毎日新聞』、2004年4月7日、夕刊)
真宗教団連合は、1980年の鈴木首相ほか17閣僚の靖国神社集団参拝や、1985年の中曽根首相の靖国神社公式参拝以降、「首相・閣僚の公式参拝反対についての要請」を続けている。 今回の福岡地裁判決(判決骨子@A)は極めて当然であり、憲法を遵守すべき首相の靖国神社参拝は、今後中止すべきである。
しかし、首相の靖国神社参拝の問題は違憲判決だけで片づく問題ではない。 明治から先の第二次大戦までの、国権の発動による戦没者の追悼をどうするかという問題が残る。
亀川裁判長は、「本件参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考え、判示した」と述べるとともに、「戦没者の追悼は、靖国神社への参拝以外の行為でもなし得る」と述べている。 今回の判決をまつまでもなく、憲法に抵触しない新たな国立戦没者追悼施設の建設論義が要請される。
2、宗教的人格権の見直し
判決骨子BCは「宗教的人格権」に関する問題である。 判決は「原告らの主張する宗教的人格権や平和的生存権などは、憲法上の人権と認めることはできない。 原告らの主張する人格的利益は、憲法上の人権といえないとしても、一般論として不法行為による被侵害利益たり得ないと解することはできない」と判断した。 つまり、原告の主張する「宗教的人格権」を憲法上の人権と認めることはできないが、不法行為論の立場から「人格的利益」を侵害されたと考えることはできるというものである。
この不法行為論による立論は、すでに自衛官合祀事件最高裁判決(1988年6月1日)の反対意見に、「宗教的な心の静謐は少なくとも不法行為上の保護を受ける利益であると認めてよいと思われる」(伊藤正巳裁判官)に知られる。 当然、この不法行為論からは、歴代首相の年始の伊勢神宮参拝も射程に入ろう。
ところで今回の福岡地裁判決は損害賠償請求訴訟であり、国が勝ち、原告が負けている。 負けても違憲判決が出れば良いのだというなら話は別だが、裁判に勝つ戦略としては、いままでの「宗教的人格権」の見直しも必要である。
「宗教的人格権」は、時の首相の靖国神社参拝訴訟の場合、国家賠償法にもとづく損害賠償請求(慰謝料請求)以外に方法がないので、「信教の自由」とそれを保障する「政教分離」を守るために取られた裁判上の手段である。 だから、「宗教的人格権」の主張が、国家や権力に対して批判的スタンスをとるのは当然である。しかし、「宗教的人格権」の主張する国家批判や権力批判は、あくまでも「信教の自由」「政教分離」を守るための手段であって、目的ではない。
一部に見られる、「宗教的人格権」の立場に立つからには、政治権力に取り込まれ、利用されないために、国家=天皇=神道という支配秩序へのプロテストが必然するとのごとき主張は、「国家仏教と反国家仏教」というステレオタイプ化された日本仏教史理解の呪縛がある。
これまでの「宗教的人格権」として主張された内容を「憲法上の人権」として裁判所に認めさせるためには、阿弥陀仏に向き合い、「弥陀一仏」に生きる真宗者は、いかなるものとして国家や天皇や神道と向き合うのかという説明が要請される。 信仰の外護者としてか、必要悪としてか、国家や天皇や神道それ自体は否定されるのか、その説明が求められている。
「宗教的人格権」という概念の曖昧さもさることながら、内面の精神世界への国家の介入を拒否しながら、司法判断にゆだねることには、落とし穴もある。かつての「神道非宗教論」の轍を踏まないかとの危惧も感じる。
その意味において、これまでの国家=天皇=神道という支配秩序へのプロテストを内容とした「宗教的人格権」は、不法行為論の立場から、その理念と概念の見直しが必要に思う。
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池田 行信 |
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