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コラム 04.05.01 



イラク人質事件に思う


 

 イラク人質事件では、本当に心が痛みました。特に被害者ご本人やご家族のご心労を思うと言葉になりません。
 だからこそ、私はどの立場から、一連の報道をみていくのか。そして、どの立場からこの現代社会を生きていくのか。私が問われているということを大切にしながら、考えていきたいと思うのです。

 テレビと言う情報媒体は、基本的に一方的で、いつでもスイッチ一つで関係を切ることが出来ます。
 いくら双方向と言っても、インターネットでさえも、電源を切ることが出来るのです。それは、関わることからいつでも逃避することが出来ることを意味しています。関係を裁ち切り他人事にする事が出来るのです。
 しかし、現実は、簡単に割り切れるものではないと思います。特に、ご本人やご家族の思いに心寄せていくとき、人生においてあの事件から逃げることは出来ないのです。

 バッシングはどのような立場で語られているのでしょうか。
 どんなに正統な事を語っていても、「いつでも逃げますよ。関係ないですから・・・」という立場からの発言は、常に傍観者という立場がつきまとうのではないでしょうか。
 私は少なくとも、先ず、被害者ご本人やご家族の苦しみや悲しみに心を寄せていきたいと思います。そして、この事件から逃げることのできない、現代を生きる人間として、何が出来るのか考え行動してゆきたいと思います。

 私は、「自己責任」という言葉によって人を切り捨てることはやめたいと思います。いのちを紡ぐ文脈の中で「自己責任」を語りたいと思うのです。

 一人の救出のために大勢の方が関わっておられます。
 その事実は、決してバッシングによって明らかにされることではありません。被害者の苦しみに心寄せていくところから始まっていくのではないでしょうか。
 だからこそ、関係が切れる一方的な報道機関での発言は控えるべきなのです。
 むしろ、全国から世界から、いのちを紡ぐ言葉が報道によって寄せられることによって、個人の尊厳が護られ、それが、全ての人々の苦労に響き、初めて報われるのではないでしょうか。

 私たちは、この世に生まれたとき、「自己責任」で生まれてきたのではありません。私の計らいを超えて、いのちを恵まれたのです。
 人間の存在そのものは自己責任を問われるものではありません。仏教でいう自業自得と言う言葉も同じです。
 「自」という存在の本質を関係から切り離された孤立化した存在と取らえるからこそ間違うのです。
 一人ひとりは無限の尊厳を持って生きている、しかし、その一人は、一人で生きることが出来ない。
 私は、根源的な矛盾を抱えてこの世にいのちを恵まれているのです。常に関わりながらものごとはなりたっているその厳粛な事実に向きあうところから始めなければ成らないと思います。
 「自己責任」をどの立場から語っているのか、ご一緒に考えて参りたいと思います。


成田 智信