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コラム 04.05.01 



人質になったのは自業自得?


 

 イラクの日本人人質が、全員解放され、本当によかったと思います。
 人質3人に対するネガティブ・キャンペーンは酷いものでした。
 一番冷静でなければならない政府がネガティブ・キャンペーンを煽り、与党の政治家が「反日分子」などと発言することを許すなど、国際感覚のない狭量な精神は、日本人の心の根底にある歴史的に受け継がれた精神性なのでしょうか。それとも、今の政治の貧困の現れなのでしょうか。

 小泉首相は、「人質になったのは自業自得」と言いました。この自業自得という言葉は、仏教でよく使う言葉です。
 ただ、ここで使用されている「自業自得」という言葉は、今得ている境遇の原因は自分自身が作ったものだとして、人を裁きあきらめさせる響きを持っています。
 今回は、仏教で説くところの「業」の考え方について、おさらいをさせていただきたいと思います。

 善因善果・悪因悪果または善因楽果・悪因苦果との業による因果の思想は、お釈迦さま以前からインドで広く用いられていた考え方です。
 そして、お釈迦さまは、業による因果の思想を重視しました。
 当時、お釈迦さまを慕って他の教団から集団で入信する人々がいました。しかし、業の思想を否定する人々を直ちに弟子にすることをせず、4ヶ月の別住期間を設けて特別な研修を課したことからもわかります。

 それは、仏になる道を歩むものにとって、行為論が積極的に説かれたからにほかなりません。
 それは、初期の仏教経典でありますスッタニパータの

人は生まれによって尊いのではない
また生まれによっていやしいのでもない
行いによって尊くもなり
行いによっていやしくもなる

との言葉に象徴されます。

 それは、身分制度などの生まれによる貴賎の固定化を否定するとともに、個々の行為の責任と希望を与える言葉でもあります。
 お釈迦さまが説かれた行為論において、業による因果の思想は、人が悟りへ至る(仏になる)根拠となる思想です。
 迷いを転じて悟りを開くための、自己の行為の責任を明らかにし、個々の励みとなる教えです。

 ところが、小泉首相が使った自業自得論は、「人質になったのは貴方の行いが悪かったからだ。責任はあなた自身にあるんだからあきらめなさい」と聞こえてきます。そこには、夢も希望もありません。

 同じ業を語って、なぜこうも逆の考え方になるのでしょうか。
 ひとつには、将来の結果を求めて、個々の現在の行為を説く業の考え方と、現在を結果として過去の行為を問う業の考え方の差があります。
 もう一つには、菩提心すなわち、悟りや浄土往生という究極の目標を持つか持たないかの差であります。

 仏教では、多くの行為の積み重ねと、さまざまのご縁の影響により、大きな成果が得られることを説きます。現在はその過程でしかありません。
 小泉さんの自業自得論を聞いた時に、利潤をもとめないボランティア行為がどうして非難されなければならないのかとの疑念を抱いた人も多かったのではないかと思います。

 しかし、歴史の上で業は、現状が過去の己の業によって成り立っているのだからあきらめなさいと、差別を肯定する根拠として利用されました。
 僧侶もお釈迦さまの教えに反して差別を温存助長する布教をしてきた事実もあります。
 その反省にたって、私たちは、仏教が業の思想を大切にしてきた原点に立ち返って、あくまでも菩提心の上にたって、業が語られるべきであることを説いていかなければならないことと思います。


小林 泰善