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政治 04.06.01 



「自民党改憲素案の『政教分離見直し』」は
絶対容認できない


 
  『毎日新聞』(2004年5月30日)によると、自民党憲法調査会は5月29日、今国会中にまとめる「党憲法改正草案の素案」に特定宗教の布教・宣伝を目的にしない宗教的行事の場合は国が関与できるよう、政教分離を定めた憲法20条3項、同89条の改正案を盛り込む方針を固めたという。

  現行憲法20条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」を、素案では「国及びその機関は特定宗教の布教・宣伝を目的とした宗教的活動をしてはならない」と改め、さらに89条の「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」とある、宗教団体への公金支出制限の規定を削除するというものである。

  今回の自民党改憲素案の報道は、宗教界や国民の反応を見るために出した気象観測用の気球なのか、それとも、本気でこのような素案を考えているのか、その意図ははかりかねる。しかし、もしこの「特定宗教の布教・宣伝を目的」としなければ、国がどのよう宗教活動をしても良いとなれば、年始の伊勢神宮参拝や戦没者追悼は「社会通念」「公共の福祉」であると解釈して、伊勢神宮をはじめ靖国神社や、さらには各都道府県にある護国神社の国家護持への道を開こうとするであろう。このような戦前の国家神道復活への道を押し開くことにつながる改憲素案を容認することは絶対にできない。

  現憲法下で靖国神社の国家護持、首相・閣僚の公式参拝は不可能である。現憲法下で首相・閣僚の公式参拝を実現するためには、新たな国立戦没者追悼施設の新設以外に方法はない。しかし、それは自民党の強力な支持団体であり、「戦没者追悼の中心施設は靖国神社である」と主張する日本遺族会の容認するところではない。だから「憲法を改める」ということになる。

  しかし、そもそも憲法とは何か。法律が統治権力(政府機関など)から国民への命令で、国民にとって守らねばならない義務規定であるのに対して、憲法は統治権力(政府機関など)が守る義務規定である。だから、統治権力(政府機関など)の方から憲法を「改正」したいというときは、何のために「改正」したいのかと疑ってかからねばならない。憲法は世俗の権力を制限するものとして機能すべきものであって、無制限の権力を付与するものであってはならない。

  そもそも現憲法の20条と89条は、国家を絶対化し、国民に神道を強要した、国家神道への反省から生まれた条文である。

  私は浄土真宗の宗教的信念に生きる者として、国家を絶対化したり、神聖化したりするような議論や、反対に国家や神道を否定するような議論に与するつもりはない。私は弥陀一仏を信仰のよりどころとし生き、国家や神道を信仰のよりどころとしないだけであって、国家や神道を否定するつもりはない。

  国家と宗教との関係についてはさまざまな議論が可能である。しかし国家神道の反省から学んだ教訓がある。すなわち、宗教は、「殺すことなかれ」「盗むことなかれ」等々の、善き心や善き生き方を主張する。しかし、国家は、何が善き心であり、何が善き生き方であるかは、人それぞれの判断にまかせるべきである。ただ国家は「殺人者」や「窃盗犯」を法の下に裁くのである。

  だから靖国神社や伊勢神宮に参拝することが善き生き方であり、参拝しない者は「非国民」であるというようなことを国家が決めるようなことがあってはいけない。それがための政教分離であり、信教の自由であり、それを保障するための公金支出の禁止である。

  だから現憲法の20条と89条をめぐる改憲論義においては、国家神道の反省から学んだ教訓を譲る事があってはならない。その意味からも、今回の「自民党憲法改正草案の『政教分離見直し』」は絶対に容認できない。



池 田 行 信