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政治 04.07.01 



『教育基本法』の「改正」は必要か?


 
1、『教育基本法』をめぐる論義

 真宗大谷派宗議会が5月27日招集され、6月8日閉会した。
 5月31日、代表質問における答弁で、内局は「教育基本法改正問題」について、「宗門においても、全日本仏教会においても、学びと研究を深めたい。同時に必要に応じて宗派の独自見解を示すことも検討して参る」と表明し、また、宗議会最終日の6月8日、与野党議員共同で、「教育基本法『改正』に反対する決議案」を提案し、「平和憲法『改正』の道を開き、国際紛争を解決する手段として戦争をも辞さない国を支える人づくりを目指すとともに、強者の論理に立つ能力主義で人間を分断することを推し進めようとする教育基本法『改正』に、私たちは真宗仏教者として断固反対する」との決議を可決した。(『文化時報』2004年6月9日、6月23日)

 真宗大谷派内局のいう「宗派の独自見解」とは、全日本仏教会が2003年2月4日付けで中央教育審議会に提出した『新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方についての「要望書」』(以下「要望書」)に対する「独自見解」を意味する。

 全日本仏教会の「要望書」では、「わが国におけるモラルの低下、青少年の犯罪、いじめ、学級崩壊、家庭崩壊、地域でのしつけや教育に深刻な問題が生じているのも、一つには現行教育基本法の下では道徳教育止まりで、その基礎ともなる宗教教育が過度に軽視されてきた結果であるといえます。
 故に、こうした現場に於ける荒廃の解消のみならず、中央教育審議会が目指す人格の完成、我が国の伝統・文化の正しい理解と尊重、心豊かでたくましい日本人の育成」のために、『教育基本法』第9条【註】の、以下の三点についての「改正」が要望された。

 @現行の教育基本法第9条一項に「宗教の社会生活における地位は教育上これを尊重し  なければならない」とあるのを、「日本の伝統文化の形成に寄与してきた宗教に関する基本的知識及び理解は、教育上これを重視しなければならない」と改正する。

 A併せて「宗教的情操の涵養の尊重」も明記し、教育の現場で実施することが緊要の事とする。

 B第9条二項にある「特定の宗教のための宗教教育」という条文は、「特定の宗教のための宗派教育」と改正し、この際、教育現場において宗教教育全般を禁止するような解釈を生む余地をなくす。


 全日本仏教会の「要望書」が提出されるや批判が出された。
 その内容は、一言にしていえば、《この時期に「教育基本法第9条改正推進」を主張する全日本仏教会の「要望書」は、「教育基本法改正」勢力に迎合し、そのお先棒を担ぐものであり、結局、「憲法改正」をもくろむ政治勢力の恣意に取り込まれる》というものである。


2、「改正」批判の視座

 「要望書」批判は、次の二つの視座に立つものである。

 その一は、《教育基本法改正の主張は新自由主義・新国家主義に立つ》という主張。新自由主義の自由とは競争原理の自由と、市場原理の自由である。
 すなわち、世界的なグローバリーゼーションの大競争時代に生き残るために、「小さな政府」を唱えながら、「強い国家」を目指すものである。
 具体的には、「構造改革」という名の下に、国はこれまでの福祉・教育・医療などの政策から手を引き、市場原理・民営化に委ね、一方、国家機能を軍事・外交・治安などに限定するというものである。

 その二は、《愛国心教育の先にあるのは戦争だ》という主張。
 すなわち、能力主義の導入による「出来の悪い子」を切り捨て、「出来る子」をさらに伸ばす教育の格差戦略は、日本の資本主義の人材養成と雇用政策に規定されたものであり、それは、軍事大国化の論理とひとつながりであり、「戦争のできる国家」「戦争を担う国民づくり」を目指すものであるという。(『教育基本法「改正」に抗して』岩波ブックレットNO、626。その他)

 だから、《戦前に戦争協力をした仏教徒としての反省に立つならば、全日本仏教会は「要望書」を撤回すべきである》と主張する。

 二つの視座に立った「教育基本法改正批判」は論理明快である。
 しかし二つの視座からは「宗教教育」「宗教的情操教育」をどう考えるのかは不明である。
 全日本仏教会の「要望書」の内容の是非を論議するためには、二つの視座だけでなく、本来の「宗教教育」や「宗教的情操教育」をどう考えるべきかの議論も必要である。

3、宗教的情操とは何か?

 全日本仏教会の「要望書」は三点からなる。その問題点として指摘されるのは、以下の内容である。

 @の「日本の伝統文化の形成に寄与してきた宗教に関する基本的知識及び理解」の「重視」は、結果的に神道への郷愁を強く持つ、守旧的支配層のお先棒を担ぐことになるという批判。

 Aの「宗教的情操の涵養の尊重」は、結果的に宗教的情操=畏敬の念=天皇への敬愛=国家秩序への順応という、戦前の「国家神道」体制の復活につながるとの批判である。

 すでに1948年当時、「天皇の崇拝、天皇へのあこがれ、宗教的情操−どう見てもそこになにかつながっている」「宗教的情操とは畏敬だ、という説が有力だが、対人間、対支配者の感情は歴史的に変化する。それを反映して、宗教的情操も変わる。
 その古い時代の『畏敬』の情緒を、いつまでも押しつけられてはかなわない」(佐木秋夫『宗教と時代』)と批判され、近年でも「宗教的情操−じつは神道的情操にほかならない」(加藤西郷『宗教と教育』)と指摘されている。

 しかし、元・朝日新聞記者の菅原伸郎氏は、宗教的情操を現行の「中学校学習指導要領」総則にいう「畏敬の念」でなく、「深い反省や懺悔」として理解することも必要ではないかと指摘している。(『寺門興隆』2004年1月号)>

 宗教教育や宗教的情操教育の問題を、戦争や国家や教育行政の視点からだけでなく、宗教の原点から見直そうとする指摘で傾聴すべきに思う。
 しかし、上のような宗教的情操教育に対する危惧の念を踏まえるならば、「宗教的情操の涵養の尊重」は、いずれ特定宗教(たとえば神道)への肩入れの口実とされ、Bの「宗派教育」の禁止も有名無実になろう。

 では仏教教団は宗教的情操をどのように理解し、主張しようというのであろうか。
 全日本仏教会の「要望書」からも、また、真宗大谷派宗議会の「教育基本法『改正』に反対する決議」からも、何も見えてこない。

4、現行の『教育基本法』で宗教教育は不可能か?

 戦後の宗教教育は加藤西郷氏の指摘にもあるように、「信教の自由」と「政教分離」を形式主義的に解釈し、宗教教育の中立性の名の下に、公立学校において宗教教育を無視してきた。
 そのため、宗教的無知と宗教的無関心、さらには呪術的なものへの易信性の高い若者を育てる結果になった。
 こうしたことを鑑みると、現行『教育基本法』第9条の条項を、単なる宗教教育禁止条項と受けとめるのでもなく、また単純に宗教的情操教育は必要だというのでもない、新たな「宗教教育」の在りようを考える必要があろう。(『宗教と教育』)

 具体的にはどうあるべきか。
 菅原伸郎氏は、「宗教教育」という言葉があいまいであるとし、
  @宗教知識教育、
  A宗派教育、
  B宗教的情操教育、
  C対宗教安全教育、
  D宗教寛容教育
の五つに分けて考えることを提案し、さらに、
「当面は@CDの指導を、公私立を問わず、あらゆる学校で急いで始めたい。
 教育基本法をいじることなどしなくても、やる気があればすぐにできるのだ。要は文部科学省も学校現場も宗教に不熱心か及び腰なのである。国会や学校現場で議論をして、合意のできた線に沿ってマニュアルをつくり、教員研修などを重ねれば、難しいことはないはずである」
                  (『寺門興隆』2004年1月号)
 「もちろん、その先、宗教をさらに深く教える仕事は学校に頼るのではなく、寺院や教会で宗教者自身が取り組むことになる」
                    (『大法輪』2004年4月号)
と提言している。

 現行の『教育基本法』の枠内で「宗教教育」は充分可能である。全日本仏教会は、そのための施策の検討と提言をこそ課題とすべきである。

【註】『教育基本法』(昭和22年3月31日施行)
〔第9条〕(宗教教育)
 @宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
 A国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。



池 田 行 信