このところ、若年者による耳を疑いたくなるような事件が続いています。
佐世保の小6同級生殺人事件、新宿区の幼児突き落とし事件等。新聞やテレビの報道から漏れ聞こえてくる動機には「いやなことを言われた」「告げ口されたくなかった」など、こんなにも安易に人の生命が奪われてしまうのかと、背筋の寒くなる思いがします。
ここ数年、学校などでは「こころの教育」が叫ばれていながら、心が荒廃し生命を軽んずる風潮に大きな変化は見られません。
そんな今、私たちは仏教徒としてこのことをどのように考えたら良いのでしょうか。
仏教徒が守るべき戒律の第一として「不殺生戒」があります。
『ダンマパダ』の刀杖の章には
すべての者は刀杖におびえる すべての者は死を恐れる わが身にひきくらべて、他人を殺してはならぬ また人をして殺させてはならぬ。
すべての者は刀杖におびえる 生命はすべての者に愛好される わが身にひきくらべて、他人を殺してはならぬ また人をして殺させてはならぬ
とあります。
釈尊の当時においても戦乱もありましたし、殺戮もあったのでしょう。
時と場合、状況によってはあらゆる人が他人の「生命」を奪う立場になっていたかもしれません。 であるからこそ「五戒」の第一に「不殺生戒」があげられてもいたのでしょう。 ただ単に「生命は尊いものだ」という戒めに留まらない、第三者的な解説に終わることなく、自らのこととして、説得力のある言葉として説かれていたのではないでしょうか。
釈尊は『ダンマパダ』の中で「わが身にひきくらべて」と私たちに示されています。 このことは私にはどうなのか、わが身においてはどうなのかと思いをめぐらせること。 自らがされたくないことは、他人にもしてはならない。自らがしたくないことは、他人にさせてはならない。と想像力を豊かにし、思いをめぐらせることとのお示しでしょう。 その根底に有るべきものが仏法なのでしょう。自らを省みる拠り所とするもの、自らを映す鑑となるものが釈尊のみ教えであると頂くものであります。
釈尊が亡くなられる時のお言葉として「自灯明、法灯明(じとうみょう、ほうとうみょう)」が伝えられています。 釈尊亡き後、自らを灯火とし、仏法を拠り所とせよとのお言葉であると聞いております。 インターネットなどが発達し、様々な情報が氾濫する社会となってきました。 そのような中で惑わされること無く、自らの足元を見つめる糧となるものを求めなくては、色々な価値観の渦に翻弄され右往左往してしまうのでしょう。
少年少女に現われた事件ではありますが、これを他人のこととしてではなく、「場合によっては私も他人を殺してしまうかもしれない」と自らに問うことが求められているのでしょう。 そして、自らを通した言葉で語らなくては相手の心に届くものとはならないでしょう。心が荒廃し、生命が軽んじられている今、もう一度釈尊のみ教えに照らして、自らの有りようを見つめ直さなければいけないと思うものです。
* ダンマパダの文章は、
講談社刊 早島鏡正著 『人類の知的遺産(3)ゴータマ・ブッダ』 P229からです。
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藤井 芳弘 |
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