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自殺について考える 04.08.01 



「共に生きる」


【 自殺者、過去最多3万4千人=経済苦激増、初の8千人超−03年警察庁まとめ−

 昨年1年間の全国の自殺者は3万4427人で、前年より2284人(7.1%)増え、統計を始めた1978年以降最多になったことが22日、警察庁のまとめで分かった。働き盛りの40、50代の男性を中心に「経済・生活問題」が動機の自殺が激増、初めて8000人を超えた。
 人口10万人当たりの自殺者は27.0人で、前年比1.8人増加。自殺者のうち、成人男性が2万4329人で全体の7割を占めた。
 自殺の原因・動機は、病苦などの「健康問題」が1万5416人と最多で、「経済・生活問題」が8897人、「家庭問題」2928人、「勤務問題」1878人だった。
 経済・生活問題の激増が目立ち、前年比957人(12.1%)の増。6年連続で過去最悪を更新し、最少だった90年(1272人)の7倍に膨れ上がった。うち、40代の男性が1853人、50代の男性が3031人で、合わせて半数以上を占めた。 
 (7月23日(金)「時事通信」より) 】
 
  私たちは、上記の記事にあるように、自死される方が年々増え続るという現実を抱えた社会に生きています。この現実を私自身の問題と受け止め、皆さんとご一緒に考えてゆきたいと思います。(ポストエイオスでは、「最近のニュース〜自殺について考える」の項で既に何度かこの問題を取り上げていますので、そちらもご参照ください。)

 私はこの問題を考えるとき、「共に聴きあい、共に語り合う関係」を大切にしたいと思います。「共に語り合いましょう」というスローガンではありません。そこには常に一方的な権威的関係が潜んでいます。大切なのは、権威的な関係ではなく、自死の問題を私がどういう立場に立って考えるのかということなのです。

 たとえば、先生と生徒の関係で、先生が正解を持っていて、その正解を当てようとする考え方があります。その場合、正解する事が目的です。この関係で、自死の問題を考えようとすると、生死の実感が見失われてしまいます。なぜなら、私が当事者であることを見失いあ、自死そのものを他人事にしてしまうからです。

 そこに、「自死はいけないことです」という権威的な正解(スローガン)が与えられるとき、「自死」そのものがスローガンに塗りつぶされてしまうのではないでしょうか。そこには、生きることの悲しみを一方的に塗りつぶす権威に同化した私が誕生すると思います。

 ブラジルの教育思想家にパウロ・フレイレという方います。その方が教育に対して、銀行型教育と課題提起型教育という二つのタイプを示しています。銀行型というのは、教師が知識を持っていて、生徒が空っぽという立場で、教師が生徒に知識を貯めていくという関係です。そこには、どんなにすばらしい知識でも、一方的に注入される過程でその知識は活力を失っていくと指摘されています。これは、単に教育の問題だけではなく、今、自死の増加を抱えた社会で、私がどのように自死の問題と関わろうとしているのかという事にも通じます。

 それに対して、課題提起型とは、里見実氏の要約を引用します。
 「それは人びとがみずからの経験のなかからなにかを発見する共同の行為である、とい  ってよいでしょう。とくに重要なことは、人びとがそのコミュニケーションのなかで  みずからの力で、あらたに知を形づくるということです。」  
(『学校を非学校化する 新しい学びの構図』里見実著40頁〜)

 権威によって、自らの体験をつぶすのではなく、それぞれが当事者として、創造的な関係を構築するということです。知識に対する善し悪しではなく、その知識を権威化しない関係こそが重要なのです。

 私は、仏教を学ぶものとして、この言葉に出合ったときに、「学仏大悲心」という言葉を思い起こしました。み仏の大慈悲心を学ぶとは、自分を権威化することではなく、スローガンを振り回す事でもありませんでした。「愚者にかえること」でありました。自分自身の悲しみの声を聴くと同時に、他者の悲しみを聴かせて頂くことでした。それは、み仏の大慈悲に抱かれることによって、共に生きる同朋と共に「僕の悲しみは無意味じゃない」といい切れる関係であると思います。

 自死の現実の中で、共に聴きあい語りあう社会をもう一度見つめ直してみませんか。どうぞご意見をお聞かせください。
                        

2004.8.1 成田 智信