阪神大震災のボランティアに参加してから9年ぶりに、新潟水害のボランティアに参加することになりました。地震と水害の違いがどうなのか、あまり予備知識もなく、新潟行きを決めました。
前日に作業衣店に行き、作業ズボン・防塵マスク・ゴム手袋を購入して、自宅にある長靴と帽子をもって、7月29日午前4時、新潟に向け東京を出発しました。今回は、日帰りで、5人の東青僧(東京教区青年僧侶協議会)会員と共に参りました。
高速を使い、3時間ほどで中之島町に到着。のどかな田園風景を見て、本当に水害に遭っているのだろうかと思いつつ、中之島ボランティアセンターに直行しました。
このボランティアセンターで驚いたことがありました。県内からはもちろん、私たちのような県外ナンバーの車もちらほら見受けられるほどのボランティアの人々。それを効率よく派遣できるように、システムが確立していたこと。そして、なにより驚かされたことは、活動で使用されるであろう、スコップや長靴・デッキなどをセンターで借りることができたことです。
阪神大震災の時には、活動するための道具を全て自分でそろえて、現地に入ったことに比べれば、本当に「身体一つ」でボランティアができるということであります。災害の規模は違うとしても、この10年で災害ボランティアというものが、よりスムーズに動けるようシステム的に確立されてきたのだなと感じました。
手順とすれば、まず団体もしくは個人の受付をすませ、次にからテープに名前を書き袖に貼る。それから派遣受付に行き、さまざま地域に活動派遣される。その際に活動内容に必要なもの借りていく(スコップなど)。このシステムが古い体育館の中で、スムーズに行なわれていました。一人で来た人でも迷うことはないでしょう。
今回の私たちの活動は、指定された区域の住民に、救援物資として届いたタオル(一件あたり7枚)を渡しながら、状況を見て、何らかの要請があればそれに対応するというものでした。いわゆる「安否伺い」ということです。
土砂を片付けると張り切っていた仲間は、ちょっと拍子抜けしたようですが、私はそれを聞いて、土砂災害から約二週間で、落ち着いてきたんだなあという印象を持ちました。回ってみると、すでに土砂を片付けるというよりは、いつ大工さんなどのプロの方々に直してもらうかという段階に入ってる方が多かったです。
落ち着いてきたとはいえ、土砂や浸水の爪痕は激しく、なかなか家族だけでは復旧が進まないのも事実です。また、被害の受け方も様々なので一概にはいえませんが、私がお会いしたみなさんの表情をみていると、意外にも大きな悲壮感に包まれているというふうには見受けられませんでした。私の感じ方に間違いがあるかもしれませんし、阪神大震災と比較すること自体無理があるとは思いますが、阪神大震災の被災者に漂っていた大きな悲壮感との違いはどこにあるのだろうかと、ふと考えました。中之島町の場合、自宅が全壊し避難していらっしゃる方も勿論いますが、ほとんどは床上浸水で自宅一階が被害に遭っています。多くの被災者は2階で生活し、1階の修復を毎日されている状態です。
しかし、阪神大震災では、ほとんどの方が小学校などの避難所やで数ヶ月過ごしてから仮設住宅に移られ、自宅に戻ることのできた方は少なかったのです。被害を受けても何とか自宅で生活できているということが、どれだけ被災者のストレスを軽減しているのかを強く感じました。
中之島町ボランティアセンターは、8月から本部が移転し、活動も総合的なものから弱者支援に切り替わるそうです。とはいえ、まだまだ完全な復旧にはほど遠いので、これからも支援を続けて行きたいと思います。
阪神大震災から10年を経て、ボランティアが特別な行為ではなく、身近に気軽にそして無理なくできる行動なんだということを感じさせてもらった新潟水害の救援活動でした。
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2004.8.1 北條 大慈 |
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