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 04.09.16 



仏教者と国旗・国歌
by
池 田 行 信


1、「日の丸」「君が代」が拒絶される理由

 先のサッカーのアジアカップでは、中国人観客による「君が代」演奏時のブーイング、「日の丸」の焼き討ちが大きな話題になった。
 ナチス・ドイツのベルリン・オリンピック大会(1936年)、北朝鮮のマス・ゲームなど、スポーツは国威発揚や国家意識を高めるものとして政治的に利用されやすい。
 ではなぜ、「君が代」演奏がブーイングにあい、「日の丸」が焼かれたりしたのか。日本国内においても、沖縄での海邦国体(1987年10月)で、ソフトボール会場に掲揚されていた「日の丸」が焼かれるという事件があった。
 「日の丸」「君が代」が拒絶される理由としては、《日の丸は、侵略戦争の旗印であり、軍国主義のシンボルである》というものであり、《君が代は、天皇主権時代の歌であり、天皇統治の正当化や愛国心高揚のための道具に使われる》という理由である。
 たしかに、他国民・他民族への責任意識の問題は大切である。しかし、こうした戦争責任問題とからめた「日の丸」「君が代」の反対論も、国旗・国歌そのもの、さらにいえば「日本」という国号そのものをも射程に入れた問い直しがなくては、ネガテイブ(消極的)な批判論になりかねない。


2、国旗・国歌は必要か

 フランスのルイ14世は「朕は国家なり」と豪語したという。しかし、ルイ14世のいう国家とは王朝を指して国家といったのであり、王朝の旗があればすんだ。
 そもそも国旗・国歌は近代になって、国民統合のための強力なイデオロギーを持ち、他国によって主権国家として認められ、世界的な国家間システムのなかに位置づけされる国民国家(ネーション・ステイト)の成立後、その「国民」の統合のシンボルとして誕生した。
 だから、今日、世界にある約190余の国には、どの国にも国旗・国歌がある。ただし、スペインやサンマリノ共和国のように国歌はあっても歌詞が無い国もある。(弓狩匡純『国のうた National Anthems of the world 』2004年)
 日本における国民国家へのスタートは、明治維新からと考えられている。だから国旗・国歌の議論は、明治維新以降の近代国家としての日本史をどう理解するかの問題でもある。
 『大日本帝国憲法』の「天皇主権」の立場から、いまだ明治維新は完成していない。未完の明治維新である。だから、天皇親政による天皇=神道=国家という「神の国」を完成させよというのか。それとも、『日本国憲法』の「国民主権」の立場から、明治維新以降の日本史は侵略戦争の歴史であり、かつ、国民の権利とされてきた内容には虚像がある。だからあらためて国民国家の理念を再構築しようというのか。
 こうした明治維新以降の日本史の見直しによるナショナル・アイデンティティの再構築の手段として、日本という国家の存在証明のシンボルとしての「日の丸」や、日本人という民族的一体感をもった国民であるとの存在証明として「君が代」がクローズアップされてきた。


3、国旗・国歌に対する仏教者としての態度

 国旗・国歌に対する仏教者としての態度はどうあるべきか。
 私は、《どんな宗教を信じようと自由だが、しかし特定の宗教に属する前に国民であれ。仏教者であるまえに国民であるならば、国旗・国歌を尊重しなければならない》と、国民の立場を強要する国旗・国歌の義務・強制には反対である。
 と同時に、《国家は死滅すべきもの》《戦争を起こすような国家はいらない》と、仏教思想と国家否定のイデオロギーとを混同したような国旗・国歌の不要論にも反対である。
 確かに《戦争は不要》であり、《国家は死滅》すべきものとして国家を否定し、そのシンボルとしての国旗・国歌を拒絶することは原理的には可能である。しかし、今日、近代の国民国家がEU(ヨーロッパ連合)のような大きな連合に吸収されていく方向にあるとはいえ、この先100年、《国家の死滅》が可能になるような国際情勢にはないし、国民国家は当分存続するであろう。
 国民国家が当分存続するならば、仏教者における国旗・国歌の議論は、この国民国家としての日本をどうデザインするかの問題となる。言い換えれば、仏教者として国家を超えた世界を見据えつつ、同時に、日本という国民国家の「国民」として、どう生きるかの問題となる。
 今日、このどう生きるかをめぐって問題となるのは、「日の丸」の掲揚と「君が代」の斉唱を、一律に教員や生徒に、義務や強制をともなう形で実施することである。
 東京都教育委員会の、いわゆる「日の丸・君が代処分」では、都教育委員会側は「国旗・国歌の適正化」といい、処分された教職員側は、「都教委のやり方は、一人ひとりへの『職務命令』と『処分』を振りかざして教職員を『日の丸』『君が代』の前に拝跪させ、『国家への忠誠』を強要する」(『「日の丸・君が代」処分』2004年)ものであるという。
 入学式や卒業式の式次第に「日の丸」「君が代」を入れることは多数決の原理で決められよう。しかし、多数決で決定したからといって、「日の丸」へ向かって起立し、「君が代」を斉唱することを教員や生徒に強制することは、「思想及び良心の自由」(『日本国憲法』第19条)や「信教の自由」(同第20条)に抵触することであり基本的人権の侵害である。
 あるクリスチャン教師はいう。「私はプロテスタントのクリスチャンです。大学一年生の時に洗礼を受けました。すでに二〇数年、教会に通っています。私にとって、『君が代』の起立・斉唱を強制されることは、他の宗教行事に参加を強いられることであり、また自分の信じる聖書の神への裏切り行為とも思え、大変な苦痛なのです。なぜなら私には『君が代』が、天皇を『神』としてあがめる讃美の歌に聞こえるからです」(『「日の丸・君が代」処分』)と。
 《天皇制は日本の文化である。『日本国憲法』は象徴天皇制をとっている。だから『君が代』の「君」が「天皇」であってもいいではないか》との意見もあろう。しかし、「国旗」「国歌」を義務化し強制する側の思惑は、まさに「君が代」を「天皇を『神』としてあがめる讃美の歌」にしたいからではないか。
 「国旗」「国歌」の議論は、その是非論だけでなく、「国旗」「国歌」を法制化し義務化・強制する思惑がどこにあるのかを見きわめねばならない。なぜなら、内村鑑三の「不敬事件」や、戦時中の神社参拝への強制を繰り返すようなことがあってはならないからである。