9月18日、恒例の本派全戦没者追悼法要。今年も大勢の参拝がありました。
昨年は、宗門内外で意見の分かれる国立追悼施設新設の問題がありました。 しかし、現在では政治的には争点にもならない状況になり、法要でもその件にはまったく触れられることはありませんでした。
今年は、宗門として遅まきながら戦時消息の失効等の戦後処理の施策が実施された直後の法要でありましたので、武田達城師の記念布教等、法要に望む本願寺派の立場がより明快になったと思います。 今後は、政治や社会に対して、宗派の平和への姿勢や取り組みをより具体的にアピールすることができるようになればと思います。
昨年、会員の成田智信さんが当HPに、千鳥ヶ淵の法要参拝の印象により「拍手?それともお念仏?」という一文を寄稿しています。 私も同様な思いを持っており、作文朗読に対しては拍手をしたいという思いを持って法要に参加いたしました。
しかし、当日私は、チョツトした感情的(感動的?)な体験をしました。
テント内の通路を隔てた隣に座られた女性、お念仏の声が一際目立つ方でした。区切り区切りで申されるお念仏、はじめの内はつられて私の周囲の方々もお念仏を申されていました。
しかし、状況が変わったのは、国府台の中学生の作文朗読が終わってから…。
例年のごとく静かに、なんの反応もなしかと思ったその時、拍手が起こりました。つられてぱらぱらと遠慮がちな拍手が広がりました。 もちろん私も拍手をしました。そうしましたら、件の女性が、「阿弥陀さまの前では、拍手はいけませんよ」との声を上げられました。
次に高校生の朗読があり、今度はより多くの拍手が…。 案の定、その女性はより大きな声で教育的指導を…。 それからは、お念仏のボリュームが一際上がり教育的モードに突入。 私がいたテントでは、区切りと言う区切りは、その方おひとりのお念仏が響きわたっていました。 周りの人々は圧倒され、ちらちらその女性の方を窺う始末。自然に出ていたお念仏も影をひそめてしまいました。
蓮如上人は、「いさみの念仏」とおっしゃいましたが、「力みの念仏」にお会いしたのは初めての体験でした。 そばにいた私も疲れました。
私たちの宗門では、ご法話の折、拍手をせず合掌してお念仏を申すのが習慣になっています。 我がこととしてお聞かせいただくと言う姿勢の現れです。 しかし、私の寺でも、初めてご法話のご縁に触れる方々が多い新盆法要の折など、法話のあと拍手が出ることがあります。 私も聴聞の姿勢についてお話をさせていただき、拍手ではなく合掌してご一緒にお念仏をしてくださいと指導しています。
この女性は、浄土真宗のしきたりを忠実に守られている理想的な方と言うことができると思います。
しかし、一歩下がって考えてみますと、この習慣は浄土真宗のみのものであります。 選ばれて作文を朗読する生徒さんや、宗門外の来賓のみなさんは、私たちの習慣を理解できるのでしょうか。 説明があれば納得するかもしれませんが、無反応という印象が残っても仕方がないと思います。
また、参加された門徒のみなさんは、どうだったのでしょうか。 当日の拍手の様子から、拍手したものかどうか躊躇していた様子が窺われます。 とても素晴らしい朗読に感動し、その思いをなんとか表現できたら良いのにと思われた方が多かったに違いありません。
感動を拍手で表すのは一般的な習慣です。日本でも最近スタンディングオベーションということも行われるようになってきました。 感動を身体で表現する、さらに同じ場にあるものが共にその感動を表出するということは大事なことだと思います。
やはり、本堂などでは、お念仏で感動を表現するのが理想かもしれません。 しかし、少なくとも法話以外のときには拍手をする方が自然なのではないでしょうか。 拍手をし、そのあと一緒に合掌してお念仏をする、そんな演出があってもよろしいのではないかと思います。
むしろ感動を表現できないことは、異常だと思います。表現できないということは共感も共有もできないということです。
私たちの教団では今、信のよろこびが感動のうねりとなって、お念仏として表出されことがなくなってしまいました。 それは、個々の感動を自由に表現することが抑制されてきたからだということもできるのではないかと考えるのは、行き過ぎでしょうか。
小林泰善
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