先日、御門徒から問合せの電話があった。「お墓に家紋を入れていると親類縁者が不幸になると聞いたけど・・・」傍若無人な発言でもてはやされている某占い師がテレビでそう断言したそうだ。お連れ合いに相談したが相手にされず、そんなに心配ならお寺に聞いてみろ、と言われたとのこと。電話でお答えをして安心はしていただいたと思うが、同様に、その占い師が仏壇について発言したのに動揺した質問を何件も受けたという知人もいる。むしろ寺に問い合わせてくださるのは有難い部類と言えよう。占い師の高慢な態度を嫌悪しながら仏壇をあれこれいじってみる人がどれだけ多いかはかの番組が高視聴率を維持していることからも想像に難くない。
オウム・サリン事件から10年がたった。事件以後、世間の宗教に対する態度は激変したかに見えた。統計上では確かに一時期、宗教を信ずる、あるいは宗教にプラスのイメージを持つ者が激減したと伝えているが、現在の占いブーム、そして一部で言われている(寺院関係者には実感できない)仏教ブームは、単にのど元過ぎてなんとやらなのだろうか。
一方アレフ(元オウム教団)への憎悪と排除の意識は変わっていないようだ。しかしちょっと考えてみよう。あの麻原が自らの世界観で他者をも覆載しようとした行為と、○○しないと地獄に堕ちる、不幸になる、と断言する某占い師の行為との間にどれだけの違いがあるというのか。あるいは、尊師の「超能力」を目前にして帰依してしまった信者たちと、テレビでの占い師の一言に動揺し歓喜する視聴者との間にどれだけの距離があるのだろう。そんな人びとがアレフを執拗に嫌悪し排除する根拠の第一は、近親憎悪ではないかとも見えてしまう。
この10年で日本社会は様変わりした。それはマスコミに多く見られる異物への強硬な排除、非寛容、攻撃などに顕著だ。もちろんインターネットの普及が無節操さを助長した面はあるとはいえ、ネットは単なる道具にすぎない。マスコミもネットも、それを享受する大衆の意識を反映する。そこに跋扈する「悪意」のうねり。発信者にとってはそれは許すべからざる他者への正当な攻撃なのだろう。「悪意」の源泉にあるのは「不安」。これこそが、10年前のサリン事件が日本社会に植え付けたものだ。「不安」の解消は元から断たなきゃだめ。元はアレフやサヨクや北朝鮮。かくして舞台をさまざまに変えながら悪なる他者を根絶殲滅すべく罵倒が展開される。しかし一度自分が攻撃している相手を見直してみるがいい。オウムを嫌悪する同じ人びとが某占い師に心酔するごとく、そこには鏡のように見慣れた自分の顔が映っていることが往々にしてありそうだ。
「不安」を断つ術は「不安の元」(らしきもの)の根絶や殲滅にはない。不安の元を冷静に認識することであることを仏教は教えている。その程度のことすら仏教者は、オウムは仏教ではないとの一言で切り捨てながらも示しえなかった10年ではなかったか。10年前に地に堕ちた宗教への世間の関心は一応回復したようだ。しかしその内実に省みるべきものはあまりに多い。
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松本 智量 |
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