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 05.04.01 


宗教の怖さ、世俗の甘さ
〜サリンから10年



  親鸞(1173〜1262)の師、法然(1133〜1212)は丁度40歳年上だった。親鸞は比叡山延暦寺で20年間で学び、行じていた仏道を捨てて、いわば宗旨替えをして専修念仏と呼ばれる法然の集いに入った。恩義もあり、人間関係もあったのに大変な決断だったろう。親鸞29歳、法然69歳、1201(建仁元)年の事である。

 1207(承元元)年、承元の法難と呼ばれる念仏禁止令が出され、親鸞は越後へ法然は土佐へ流罪と決まる。その時、法然に念仏称えるのをやめさせて流罪を免れさせようと進言するものもいた。しかし法然は「たとえ縛られても流されても殺されても念仏はやめない」と言った。私たちの日常にふいに暴力装置が現れる瞬間である。村上龍は近著『半島を出よ』(幻冬舎)に「この世のすべての人はもともと暴力的な何かの人質なのだが、ほとんどの人はそれに気づかない。根本的にはすべての人間が暴力で支配されているのだが、そのことがわからない」と表現している。

 念仏称えるといのちにかかわるという時、いのちを懸けてまで守るべきものとは何だろう。法然の専修念仏という宗教とは、暴力によっていのちがおびやかされても、なお壊れることのない新しい自分がこの世で生まれていくことを示す。つまり「縛られ流され殺される」ことで消えるような自分は虚仮いつわりであり、念仏称えることで生まれた自分こそ本当の自分であり、念仏称えることをやめたらその自分がなくなるということだ。

 念仏称えることで生まれた自分をたとえ国家という権力が物理的暴力でかかわってきても殺すことができないという宣言だ。国家が暴力で脅かそうとする自分はすでに古き我、捨てられた私である。この念仏によって生まれた自分を誰も縛れない脅かせない殺せないというのだ。理屈では分からない。しかし実際にそのような念仏申す法然が生まれた。

 親鸞は念仏申すということがそれ程の事実を生む出来事であるということを法然という生き方を目の当たりにして実感したに違いない。とてつもないもの、それが今まで仏教という名で学んできた所には全くなかった。それまでの仏教は国家を含めて世俗を相対化するものではなかった。むしろ世俗の原理の延長であった。その自覚が日本で初めて、その後も希有な存在である浄土真宗という宗教生活を生んだ。

 宗教は一面で世俗を相対化する生き方だ。自分に向かう世俗の暴力を超える原理となりうる。相対化の原理を外に向けて、暴力を行使したのがオウム真理教だった。世俗性を超え相対化する点では宗教の一側面を持っていた。だから世俗に生き、世俗の原理を相対化することを暗黙の内に拒否する一般の人びとからオウム真理教は、排除・拒否される。しかし、宗教は世俗の生活を相対化する、つまり大きな問いを投げかけるものである。

 親鸞は、法然を目の当たりに見て念仏の持つ凄まじいものを感じた、そして同時に法然のように言い切れない、それを邪魔する私たちの生き方を見つめ浄土真宗を掲げた。相対化は自己を通したのだ。

 宗教は今も、こうした側面から問われることなく、世間の自己関心から問われる。オウムへの排除という視点は、実は自己のいのちの深淵を見ようとしない排除の視点と底が繋がる。実はオウムも又、多面的重層的な私の姿の一側面である。それが見えてくるのが法然から親鸞へ届いた念仏申す生き方であろう。


本多 靜芳