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 05.06.01 


05靖国参拝とドタキャン
〜何が念仏者に問題なのか?



 ●政治家の発言・行動と主権者
 自民党の幹事長代理安倍晋三は05年5月28日、札幌講演で、首相小泉純一郎の靖国神社参拝について、「小泉首相がわが国のために命をささげた人たちのため、尊崇の念を表すために靖国神社をお参りするのは当然で、責務であると思う。次の首相も、その次の首相も、お参りに行っていただきたいと思う」と述べた。

 中国副首相の呉儀(ウー・イー)が首相小泉との会談を直前に止めたことについて、幹事長代理安部は、「日本が自分たちに気にくわないことをやっているからといって、首脳会談をいきなりキャンセルすることは、成熟した国が行う行為ではない。覇権主義的ではないかと思う」と批判した。

 政治家のこのような発言は、私たち国民の福祉や国家平和維持のためにどのように有効なのだろうか。
 さらに、私たち念仏者の信教の自由はいかに守られるのだろうか。


 ●戦勝国と敗戦国〜アジアの中の日本
 72年、日中国交回復の経緯で両国は、昭和の15年戦争は一部の軍部指導者(いわゆるA級戦犯)による侵略戦争であり、一般国民にその責任はないという合意のもとに進められた。
 そのため、戦勝国中国は、敗戦国日本に数千億ドルともいう賠償請求を事実上棄却し、国交回復が進められた。
 しかし当時の政治家、毛沢東・周恩来、田中角栄・大平正芳らは死に、その路線は変更した。
 85年首相中曽根の靖国参拝は大きな出来事であったが、中国及びアジアとの関係を考慮してその後、公式参拝のあり方が変えられた経緯がある。

 今日、日中両国は経済大国として拮抗するようになるが、日本はアメリカに拝跪し、その庇護の下、中国・韓国・北鮮等との関係では首相以下タカ派は横柄な態度をとっている。
 しかし、東アジア共栄圏構想に対する視座を持たず、大東亜戦争聖戦説と国家神道の呪縛の残る右派政治家に新たな政治的展開の局面は見られない。そのため靖国参拝という安直な方法のみに自国権益の主張が終始してしまっている。

 ●「信教の自由」「政教分離」って?
 しかし靖国参拝がアジア圏の政治問題となると同時に、侵略戦争を推進させた国家神道の問題が問われなければ念仏者の立場から靖国問題は分からない。
 敗戦前の日本では、国家神道が掲げられ、同宗教が教育勅語や軍人勅諭によって臣民に教育・強制され、国家により特別な保護を受けた。敗戦後、日本国憲法は、特定宗教を国が保護又は国民に強制することを厳しく戒めた。
 これを「信教の自由」「政教分離の原則」という。

 憲法20条は自由権の一つ、いわゆる「信教の自由」を、また同89条は「政教分離の原則」を次のように定める。

「 第20条
 @信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 A何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 B国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」

「 第89条
 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」

 つまり、靖国神社へ公権力などを持つ者が公金を用いて参拝することは、憲法に違反するというものだ。
 そのため色々な靖国訴訟で違憲判決が出ているのである。

 ●靖国神社ってどんな神社?
 東京都千代田区九段に、1869(明治2)年、戊辰戦争の戦没者を慰霊するために国家(明治新政府)が「東京招魂社」なる宗教施設を創りあげた。
 その後、全国の招魂社の中心をなす神社として整備が進められ、1879年年、靖国神社と改称され、別格官幣社とされた。
 なんと所管は陸・海軍省で、実質的管理は陸軍が行った。国家的功績者を祭神し、当然、国家神道の精神的支柱として、また侵略戦争推進の役割を担った。
 近代日本が経験した幾多の内外の戦争、及び侵略戦争による戦没者(おもに軍人)を合祀し、その数現在246万人を超える。
 敗戦後、国家神道の禁止により一宗教法人となり、78年には東条英機ら14名のA級戦犯を合祀した。

 ●強制合祀と自由の侵害
 合祀は神社側の一方的な決定でなされ、宗教的信条の相違から取り下げを請求しても受け入れない。
 そのため、神祇不拝(鬼神を拝まない教え)の親鸞さまの教えに生きようと願う人びとが毎年、靖国神社に合祀取り下げを申し出に行くが全く聞き入れて貰えない。

 仮に、あなたの家族がサリン事件で亡くなりオウム真理教拡大の殉難者としてオウム真理教の宗教施設に一方的に彼らの神として祭られたならばどのような気持ちになるだろうか。
 無論、世の中には様々な宗教があり、それを国家によって強制されず、信教の自由が憲法によって規定されている。それは宗教という個人の繊細な領域に他人や国家が介入することは主権者の自由を奪うからだ。

 一宗教法人としての靖国神社の宗教活動や、そこに参拝したい人の宗教行為は問題にならない。但し、首相の立場の靖国参拝は憲法違反となり、主権者の自由を脅かすものである。

 念仏者の私は、戦争遂行のため、国家神道の象徴として作られた靖国神社に参拝するつもりは毛頭ない。また信じたくない宗教施設に、念仏者が自分の宗教信条を奪われて合祀されていることも耐え難いことだ。

 ●念仏者として現代日本を生きる
 念仏の生活は、自分の無明に気づかされ、真実なるものを明らかにする信心に恵まれる。
 時として私たちは、念仏をも自我の正当性を主張する道具や手段にしがちだが、相手を排除・拒絶することが念仏の生き方ではない。
 しかし、念仏者としての私の生活を脅かしてくるものを見つめ、何を選び取り、何を選び捨てるかということを育ててくれるのが智慧の念仏であり、信心の智慧だ。
 憲法は、主権者である国民の権利を保障するために、最高法規として、

「 第99条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」

とある。
 一部の国会議員が辞職もせず憲法を改変しようとする矛盾、誤りを念仏者として生きようとするとき、充分注意して見届けねばなるまい。
 念仏者として生きることを「日本国憲法」も、側面から支えてくれている。
 政治家の発言と行動は、一念仏者の生き方にも無関係ではない。


05-5-29記) 本多 靜芳