6月27・28日に天皇皇后両陛下が、太平洋戦争の激しい戦闘の地でありましたサイパンをご訪問され、スーサイドクリフやバンザイクリフなど日本やアメリカ、北マリアナ自治政府、沖縄や韓国などの複数の慰霊碑を訪問、拝礼をされました。
小泉首相の靖国参拝問題から東アジアがギクシャクしている中で、この度の天皇陛下のサイパン訪問は、陛下の私的な思いということ以上に、社会に対して、戦没者の追悼のあり方に大きな示唆を与えたような気がいたします。
今年は敗戦60周年という節目の年にあたります。 最近では、靖国神社がクローズアップされ、英霊を賛美するという戦前のスタイルで、戦争の記憶がまたもや復活するような動きが見え隠れする風潮があります。 そのような中で、敵味方の別なく戦没者すべてを追悼する意志を明らかにされた天皇陛下のサイパン訪問は、大きな意味があります。
戦前の靖国神社は、戊辰戦争から官軍の兵士のみを祀る国の施設として生れ、皇軍の兵士として戦死したものを英霊として祀ってきました。 その英霊達は、忠君愛国の英雄であり国民の手本とされてきたのです。そこでは日本が行った戦争はすべて聖戦です。したがって戦争を罪悪と考えて反省することはできないのです。
60年前の敗戦の後、日本は憲法で戦争放棄を誓いました。この時点で、靖国神社の国の施設としての役割は終わっているはずなのです。 国が戦没者を追悼するためには、靖国神社はふさわしい施設とは言えないのです。靖国神社自体も、宗教法人として独立し、神道の神社として生きる道を選んでいるのです。
しかし、政治的色彩を色濃く蓄えている靖国信仰は、戦後も生き続けています。 その動きは、靖国神社国家護持の動きであり、それが叶わないとなれば首相や閣僚、そして国会議員の参拝と言う形で国の施設であるとの靖国信仰のメッセージを伝え続けています。 その一環である首相の靖国参拝なのですが、小泉首相の判断の甘さにより、現在、外交問題として国益に関わるところまでこじれてしまいました。
60年の年を経て、戦争の記憶が風化していく中で、国が突出するような形で靖国信仰のみが強調されるということが、この度の天皇陛下のサイパン訪問により、むしろ国のあり方としても誤りであることが鮮明になったような気がします。
現在多くのマスコミが、新たな国立の追悼施設について建設推進の論陣を張っています。 以前には消極的であった読売新聞も6月4日に「国立追悼施設の建立を急げ」との社説を掲げました。世論は、国立追悼施設の建設の方向に動きつつあります。
しかし、中曽根元首相は26日のフジテレビの報道番組で、靖国問題の打開策として浮上している新たな国立の追悼施設について「首相や天皇陛下がそちらにばかりお参りして、靖国神社がさびれ、つぶれる危険もないとは言えない」と述べ、反対の立場を明確にしたとのことです。
中曽根元首相のこの弱気とも読み取れる発言は注目に値します。自民党右派の発言と言うよりも、中曽根氏の宗教的アイデンティティーの問題であることが読み取れます。 私たち人間は、生きる上で宗教性を無視することはできません。しかし、それが戦前の国家神道につながるものであることが、現代日本にとってありうべきことなのかどうかは、私たち一人一人にとってあまりにも重大な問題であるのではないかと思います。
浄土真宗本願寺派では、毎年9月18日に、敵味方の区別なく戦争で犠牲になったすべての人々を追悼する全戦没者追悼法要を千鳥ヶ淵戦没者墓苑でお勤めしています。 その意義をもう一度確認しなければなりません。
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小林 泰善 |
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