9月2日、本山の本堂(阿弥陀堂)に「不審者」が乱入し、灯油を撒き、内陣の一部と親鸞聖人御真影に傷をつけたと報道されました。 報道によると、右翼と自称し、本願寺の靖国神社に対する態度がなっていないということが動機のようです。 本願寺当局は、各教区教務所長宛てに、事件を報告し、同じような事件に対する防衛を促し、また一般寺院などに、未然に防げなかったことを詫びています。
さて、このような直接の暴力により自分の主張を訴える出来事に対して、過剰反応することは返って逆効果であり、むしろ毅然として自らの主張を分かりやすい言葉で表現することこそ、仏教教団の姿勢かと思います。
確かに、今の日本は反対意見を封じる風潮が喧伝され、イエスかノーかを明言をする人や、何かと戦っているように見える人の方が、惹かれるのかもしれません。 確かな理由をもとに説明をする人よりも、底は浅くても断定的に行動する方が小泉的などと呼ばれ、特に都市部の若者層に受けていくという傾向があるようです。
しかし、この社会は自分と全て同じ意見の人で成り立っている訳ではありません。夫婦、親子という身近な関係から始まり、人間が生きるということは異なったもの、多元な価値を持っている人が暮らしています。
かつて日本を単一民族と言って総スカンを食らった代議士がいましたが、相手を自分と同じものとして同化しようとする発想が広まるところには、一人ひとりのいのちのかけがえのなさが見失われます。
特に真宗は親鸞さまにより、神祇不拝(ジンギフハイ=仏と異なる神の教えは拝まない)という教えが示され、神棚を設けない、お守りお札などを持たない、日の善し悪しに振り回されないという、いわば誇るべき伝統が生まれました。 靖国の国家護持や憲法違反の公式参拝に本願寺が長年にわたり反対意見や声明を掲げているのも、親鸞さまの教えから生まれた生き方の一つです。
先に述べたように今の日本は、反対意見を封じる風潮、それを小泉的な手法などと揶揄しながらも、肯定的に受けとめている傾向が急激に強くなってきているように思えます。
また、今度の乱入事件の性格を考えるとき、一部マスコミの姿勢も、実情をきちんと調べもせず短絡的な組織批判、あるいは全否定の片棒を担いでいるように見え、そうした傾向が社会に広まり始めているのではないでしょうか。
神祇不拝は、相手を裁いたり、責めたりする論理ではなく、自らの迷いに気づいた念仏者が、その迷いを肯定していくような様々な原理をよりどころにしないという自己表明です。そしてその生き方に魅力を感じ、念仏申す人生に導かれた人びとも多くおられます。
他者を否定していくありかたではなく、自らの生き方を深く教えていただく念仏の教えをもとに、社会に対して分かりやすい言葉で表現していくことが求められています。
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本多 静芳 |
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