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 05.09.16 


「自民党新憲法草案(第一次案)」を読んで


 第44回衆議院選挙は9月11日投票が行われ、即日開票された。自民党は296議席、公明党の31議席を加えると、自民、公明の与党で衆議院で3分の2(320)以上の議席を得ることになった。
 この結果、憲法改正論議が今後加速することが予想される。  ところで自民党はさる8月1日、新憲法草案を発表した。(8月2日、朝刊各紙参照)

 今回発表された「自民党新憲法草案(第一次案)」を靖国問題への取り組みの視点から読むと、そこには重大な問題がある。
 すなわち、自民党新憲法草案第20条3項には「国及び公共団体は、社会的儀礼の範囲内にある場合を除き、宗教教育その他の宗教的活動をしてはならない」とし、さらに同第89条1項には「公金その他の公の財産は、社会的儀礼の範囲内にある場合を除き、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のために支出し、又はその利用に供してはならない」とある。
 つまり、今回の自民党新憲法草案によると、「社会的儀礼の範囲内」にある場合には、「国及び公共団体」は「宗教教育その他の宗教的活動」をすることが可能であり、同様に「公金その他の公の財産」を支出しても差し支えないということになる。

 この「社会的儀礼論」は問題である。なぜなら「社会的儀礼の範囲」が、日本においては極めて曖昧であるからである。
 この「社会的儀礼論」の問題を考える好例が、津市の地鎮祭訴訟である。
 地鎮祭訴訟とは、三重県津市において市立体育館建設の際、市主催による神式の地鎮祭が行われた。そこに招待されていた市会議員が、この地鎮祭を憲法違反として訴えた。

 第一審の津地方裁判所は、神式による地鎮祭は一種の習俗的行事であって宗教的行事でないと判断し、第二審の名古屋高裁は、地鎮祭は習俗的行事でなく宗教的行事であると判断した。
 そして、最高裁は「当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない」と、いわゆる「目的・効果論」をもって国および公共団体と宗教との関わりを判断する基準として援用し、神式の地鎮祭は「宗教とのかかわり合いをもつものであることを否定しえないが、その目的は建築着工に際し土地の平安堅固、工事の無事安全を願い、社会の一般的慣習に従った儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ、その効果は神道を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められないのであるから、憲法20条3項により禁止される宗教的活動にあたらないと解するのが相当である」と判断した。

 この最高裁の「目的・効果論」から判断すると、たとえ宗教的儀礼であっても「一般人の宗教的評価」「社会通念」「社会の一般的慣習」に従って「世俗的なものと認められ」るならば「社会的儀礼の範囲内」ということになる。

 もしそうなると、宗教意識が曖昧にして、「社会通念」「社会の一般的慣習」として、初詣や合格祈願、結婚式や葬儀等々に参加している圧倒的多数の日本人においては、年始の首相・閣僚の伊勢神宮参拝や首相・閣僚の靖国神社公式参拝も「社会的儀礼の範囲内」と認識されかねない。
 日本人の宗教意識の曖昧性からしても、「社会通念」という多数者の意見に従順な日本人の国民性からしても、「社会的儀礼論」はグレー・ゾーンが広すぎて、どうにでも解釈可能である。

 憲法に定めた政教分離という原理・原則よりも、日本人としての常識という「社会通念」の方が優先されやすいのが日本的精神風土である。
 そのような精神風土のなかで、今回の自民党新憲法草案にいう「社会的儀礼論」をもって「政教分離」や「信教の自由」を解釈しようというのでは、はじめから第20条・第89条の「解釈改憲」を容認しているに等しい。
 この「社会的儀礼論」の適用は、結果として、神道儀礼を習俗として国民に強制することにつながりかねないし、宗教的少数者の意見を「社会通念」という名の下に封殺することにもなりかねない。

 現憲法第20条・第89条の見直し論議は、すでに1955(昭和30)年2月8日、全国護国神社会(浦安会)と神社本庁が日本遺族会に協力を要請して、政教分離に関わる憲法条項の削除にむけての運動の促進を掲げたことに始まる。(高石史人編『「靖国」問題関連年表』参照)
 昨年の6月10日発表の自民党政務調査会「憲法改正プロジェクトチーム『論点整理(案)』」には、政教分離に関して、「政教分離規定(現憲法20条3項)を、わが国の歴史と伝統を踏まえたものにすべきである」と記している。
 そしてこの「わが国の歴史と伝統」を介して「社会的儀礼論」は「文化的習俗論」へと展開し、さらにその先には、敬神崇祖・神社参拝は日本人のアイデンティティーの表現であるという「国民道徳論」が待ち構えている。

 少なくとも国の基本法である憲法は、敬神崇祖・神社参拝=「国民道徳論」に抗する、宗教的少数者の「信教の自由」を保障するものでなければならない。
 日本の精神風土において、この「社会的儀礼論」をもって「信教の自由」や「政教分離」を担保することは不可能である。



 池田 行信