10月17日、小泉首相が秋の例大祭がはじまる靖国神社に参拝しました。 参拝の形態は変わりましたが、首相として靖国神社に参拝をするという小泉首相の立場を貫いたわけですから、靖国神社国家護持のための既成事実を積み上げるという所期の目的が変化したということではありません。
首相の靖国参拝については、9月30日大阪高裁にて「特定の宗教に対する助長、促進になると認められ、我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える」として、憲法20条3項の禁止する宗教的活動にあたるとの違憲判決が下されました。 そして、この度首相が靖国神社を参拝した翌18日にはその違憲判決が確定しています。
現職の首相の行為が、憲法違反の判決を受けた前例はあるのでしょうか。 行政府の長として憲法99条で「憲法を尊重し擁護する義務」を負った首相としては、実に恥ずべきことであります。 違憲との司法判断が下されたことは、その責任が問われてしかるべきものと思われます。 しかし、小泉首相は20日の党首討論で、「靖国神社の参拝は憲法で保障されている……。『思想及び良心の自由は、これを侵してはならない』と憲法19条に書いてある。総理大臣である小泉純一郎が、一国民として参拝する。それがどうしていけないのか。私は理解できない」と発言しています。 行政府の長としての遵法精神の片鱗も見られない答弁です。厚顔無恥としか言いようがありません。
小泉首相の靖国神社参拝訴訟において憲法違反か否かの司法判断が分かれているという向きもありますが、現実には憲法問題としての司法判断まで踏み込んだ判決は少なく、違憲判決は2件ありますが、合憲とした判決は未だありません。 憲法判断以前のところで門前払いの判決になっています。
19日の朝日新聞には、
小泉首相の靖国参拝について、朝日新聞社が行った緊急世論調査で賛否が二分されたことについて、首相周辺は「微妙な結果だ」としながらも、まずは世論の強い反発は避けられたとの安堵(あんど)感をもって受け止めている。
との報道がありました。 このように、政府は、首相の靖国参拝について世論の動向を気にしているようです。 しかし、政府が最も気にしなければならないのは、違法性の指摘があるかないかという点であります。 「赤信号みんなで渡ればこわくない」式の行政を政府が行っているなら、法治国家などとは恥ずかしくて言うこともできません。
小泉首相の靖国参拝が、結果的に信教の自由の侵害にあたることは、9月2日に起こった右翼による本願寺乱入事件に象徴されます。 この右翼青年の行為の精神的な支えに、小泉首相の前3回の靖国神社参拝があったことは容易に推測されます。
本願寺派は、信教の自由を護る立場から、靖国神社国家護持の動きに対して、その度に抗議の声明を発表してきています。 それは、明治憲法下で、ほとんどの宗教団体が教えの根幹である教義をねじ曲げてでも、神道国教化政策を押し進める政府に追随しなければならなかった事実への反省に基づくからです。 当時政府のヤスクニ政策に反対することは非国民と非難され、官民に関わらず大きな圧力にさらされねばなりませんでした。
小泉首相の靖国神社参拝へのこだわりと、参拝後の答弁を聞くにつけ、憲法で保障されている「信教の自由」や「政教分離」がなし崩し的に空文化されていくような不安を覚えます。
現憲法で、「信教の自由」や「政教分離」がうたわれたのは、神道国教化政策の中で、信教の自由が大きく損なわれたことへの反省に基づくものです。 宗教教団が、その点に強い関心を持つことは当然のことであり、政府はその声にしっかりと耳を傾けていただかなければならないことと思います。
小泉首相は党首対談において、自身の靖国神社参拝について、憲法で保障する思想信条の自由をもって保障されると言い切りました。 私たちだって、靖国神社そのものの存在を否定しているのではありません。また、靖国教信者がいることを否定しているのでもありません。ただ、国家護持の動きに反対をしているにすぎません。
小泉首相は自身の立場をご都合主義であえて過小評価しているにすぎません。首相は行政府の長として、たとえ少数意見であったとしても、思想信条の自由や信教の自由を保障するための施策を押し進めなければならない立場にいるのです。
28日には、自民党による新憲法草案が発表されました。その中には、ポストエイオス会員の池田行信氏が指摘する信教の自由に対する重大な問題が含まれています。
http://www.posteios.com/PROJ_B271.htm
自民党新憲法草案は、池田氏が指摘した段階から文言は多少変わりましたが、第20条3項では、国の宗教的活動を、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない場合や、特定の宗教を援助、助長または圧迫、干渉しない限りでは容認していますので信教の自由の側面でも重大を問題を包含していることには変わりありません。 社会的儀礼や習俗的行為をどのように解釈していくのか非常に不安を覚えます。それは、「神道は宗教にあらず。日本固有の習俗である」として神道国教化政策を進めてきた日本の近代史を思い起こさせるからです。
小泉首相の靖国神社参拝問題は、信教の自由の立場から論ぜられることは少なく、むしろ外交問題として取り上げられています。 細田官房長官が韓国や中国に大人の対応を求めていましたが、ことこの問題に関しては、日本が駄々っ子的主張を繰り返しているとしか見えず、実に情けない外交姿勢であると感じた人が多かったのではないでしょうか。
そのような中、最近になって一部の国会議員から国立追悼施設の建設を推進する動きがはじまりました。 28日には、政府に無宗教の戦没者追悼施設建設を促す議員連盟「国立追悼施設を考える会」が、自民党の山崎拓氏を会長に、民主党の鳩山由紀夫氏と公明党の冬柴鉄三氏が副会長となり、11月9日に設立総会を開催することが発表されていました。国が靖国神社から決別する意味で、国立追悼施設を建設することは有効な手段であると考えられます。
しかし、無宗教の戦没者追悼施設といいましても、追悼という行為自体が極めて宗教的なものですから、その形態や運用にあたっては慎重な検討が必要です。 「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」ことを拡大解釈した靖国の代替施設になってしまっては意味がありません。仏教界からも大いに意見を述べるべきだと思います。 また、そう遠くない過去に暴力的とも思える布教活動を展開した宗教団体をバックボーンとする政党が大きく関与するのですから尚更のことです。
政府は25日の閣議で、首相の靖国神社への公式参拝について、民主党の野田国体委員長の質問趣意書に対して、「宗教上の目的によるものでないことが外観上も明らかである場合には、憲法第20条第3項の禁じる国の宗教的活動に当たることはないと考える」とする答弁書を決定したとのことです。
しかし、礼拝の方法が神式でなく普段着であったとしても、どうして、靖国神社の境内に出向き本殿に向って礼拝することが外観上から宗教上の目的でないと言い切ることができるのでしょうか。とても納得できるものではありません。無理を通せば道理引っ込むとはこのことではないでしょうか。
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小林 泰善 |
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