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 05.12.16 


「いただきます」を禁じる教育


   1998年に、富山県の公立小学校で給食の時、合掌をすることが特定の宗教の作法にあたり憲法20条で定めるところの国の宗教活動の禁止に違反するとして問題になったことがありました。
    http://www.posteios.com/PROJ_AAEDUCATE001.htm

 先日、永六輔さんのお話を聞く機会があり、大変驚きました。

 永さんが、母校で行われた小学校の同窓会に参加したときのこと、給食を小学生たちと一緒に食べることになりました。永さんが訪れた教室では、先生の笛の合図で食事がはじまりました。びっくりした永さんが、先生に問い質すと、校長先生の指導によるとのことでした。
 校長室に行き、永さんがそのことを尋ねると、同窓生の中から、「うちの教室では太鼓だった」という人や、「普通にいただきますと言っていた」という者もいました。それに対し、校長は、「いただきますと言ったのはどの教室だ。家で言っているからだめなんだ」と追求する姿勢を見せたそうです。
 その学校で「いただきます」を禁じた理由は、父母たちからの反対によるものなのだそうです。「お金(対価)を払っているのだから御礼をする必要はない」という立場です。

 永さんはこどもの頃食事のとき、「尊いいのちをいただきます」と言うようにしつけられたということです。私たちは、肉や魚や野菜など、それぞれいのちがあったものを食さなければ生きていけないのです。対価を払っていると言いましても、私たちは、いま食卓にのっている動物や魚や野菜そのものにお金を払っている訳ではありません。しかし、そのいのちをいただいて私たちは生きているのです。

 「いただきます」と言う行為は、特定された宗教の儀礼ではありません。むしろ、いのちへの視点を忘れないための生活の知恵から生じたところの生活習慣、と言った方が正しいのではないでしょうか。

 そのような行為を禁じる教育とは何なのでしょうか。こどもの将来に何を期待する教育なのでしょうか。笛や太鼓を号令に食事をするということは、犬に「おあずけ」「よし」と言っているのと同じです。きつい言い方ですが、教育というより、飼育といった方が相応しいかもしれません。永さんは、東京都出身です。東京都教育委員会は、君が代斉唱に関する細かい指示を出し大量の処分者を出すなど、愛国心教育に熱心です。国家への忠誠心を育てるためには他のいのちへの視点は不要、ということかと勘繰りたくもなります。

 最近、いのちへの視点がまったく欠落してしまっている重大事件が、こどもの周囲でもまた大人の世界でも続いています。人ごとではなく、私たちの身の回りで、いのちへの視点を磨き育てる豊かな生活の知恵が、どんどん失われていっているという危機感を覚えます。


 小林 泰善