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 06.01.16 


「ポスト小泉と靖国問題」


1、ポスト小泉と靖国問題

 小泉首相は正月4日、首相官邸での年頭記者会見で靖国問題にふれ、「一国の首相が一国民として戦没者に哀悼の念をもって靖国参拝する。日本人からの批判は理解できない。精神の自由に、政治が関与することを嫌う知識人や言論人が批判することも理解できない。まして外国政府が心の問題にまで介入して、外交問題にしようとする姿勢も理解できない。心の問題は誰も侵すことのできない憲法に保障されたものだ。ひとつの問題で、外交交渉はしないとか、首脳会談を開かないとか、理解できない。靖国参拝は外交問題にならない。中韓が交渉の道を閉ざすことはあってはならない。いつでも話し合いに応じる。後は先方がどう判断するかだ」と述べた。

(asahi.com 2006年1月4日)

 この首相の年頭会見後、ポスト小泉候補の一人、山崎拓前自民党副総裁は自民党総裁選立候補に前向きな姿勢を見せた5日の講演会で、「アジアとの関係が重要だ。政冷経熱の状態ではいけない」と強調した。

(『朝日新聞』2006年1月8日)

 また、ポスト小泉の有力候補とされる安倍官房長官は8日、小泉首相の靖国神社参拝をめぐる日中関係の悪化について「首脳、外相の交流をしない、相手側が意にそわない場合は会わない、という外交は間違っている」と述べ、会談に応じない中国政府の姿勢を批判した。安倍氏は、中韓両国の批判は「誤解に基づくものだ」とし、靖国神社の展示施設内容を引き合いにした国内の靖国参拝批判に対しては「ただ単に誤解を世界中にまき散らしている動きではないか」と反論した。

(asahi.com 2006年1月8日)

 また、「総裁候補の一人」は「靖国参拝に賛成するのは中国に屈しない人で、反対するのは屈する人という論議はおかしい」と嘆いたという。

(星浩「『靖国』と外交」、『朝日新聞』2006年1月10日)

 かつて自民党は表面的には「靖国神社国家護持」で一本化されていた。
 しかし、最近の自民党内は、「靖国参拝賛成=中国・韓国に屈しない人」「靖国参拝反対=中国・韓国に屈する人」という、二項対立の図式で色分けされているという。
 9月の自民党総裁選に向けて靖国問題の争点化は、宗教者にとっては自民党総裁候補の「信教の自由」「政教分離」理解を見るうえで大変わかりやすい。

 今後も「ポスト小泉」をにらんだ、自民党総裁候補とされる政治家の靖国がらみの発言に注目したい。


2、小泉首相のいう「心の問題」「外交問題」とは

 ところで小泉首相は、「外国政府が心の問題にまで介入して、外交問題にしようとする姿勢も理解できない。心の問題は誰も侵すことのできない憲法に保障されたものだ」という。
 では、首相のいう「心の問題」「外交問題」とは何か。

 小泉首相の「心の問題」発言は、「首相の靖国参拝は『日本国憲法』の政教分離原則に違反する」という批判をかわすための手段でしかない。
 もし本当に「一国の首相」として、国民一人ひとりの「心の問題」にまで配慮するのであれば、知覧特攻平和会館において特攻隊員の遺書を読んで涙する「心情」の問題だけでなく、仏教や神道やキリスト教など、異なった思想・信条の者同士が、ともに共存するための「信教の自由」や「良心の自由」に対する配慮があって当然である。

 しかし、口では「心の問題は誰も侵すことのできない憲法に保障されたものだ」といいながら、靖国神社参拝をやめようとしない小泉首相のいう「心の問題」とは、小泉純一郎としての「心情」や「信念」の「私事」の問題ではあっても、「信教の自由」や「良心の自由」という憲法に保障された「国民の権利」の問題とは理解されていない。
 「心の問題」として問われねばならないのは、単なる「私事」の問題ではなく、「国民の権利」を内容とした問題でなければならない。

 さらに、小泉首相の「外交問題」発言には、「中国や韓国に代表される近隣諸国の反発は内政干渉である」という主張が隠されている。
 戦没者に対する「哀悼の念」は、たしかに「心の問題」であり、「一国民」の問題でもある。しかし小泉首相は「一国の首相」である。たとえ、小泉純一郎という「一国民」の「私事」の問題であったとしても、「一国の首相」という立場で語られれば、単なる「一国民」の「私事」の問題にはとどまらない。
 ましてや、靖国問題は日本国内の議論であるとともに、先の「大東亜戦争」が「侵略戦争」であったかどうかという歴史認識の問題にも直結している。
 その意味において靖国問題に対する「一国の首相」の発言は、「一国民」の戦没者への「哀悼の念」をこえて、中韓両国をはじめ、アジア諸国の耳目から逃れられない「外交問題」ともなる。

 「歴史は『真実』を追求する。それに対し政治は、『勝てば官軍』をも含む『正義』を問題とする」(山崎正和)といわれる。
 政治家は「『勝てば官軍』をも含む『正義』を問題とする」ということは、言いかえれば、政治家は「負ければ賊軍」としての結果責任を負うということである。
 だから、中韓両国は「侵略」「敗戦」という政治の世界のモラリズムで攻めてくる。
 しかし、特攻隊員の遺書に涙する小泉首相においては、「大東亜戦争」をどう評価すべきかという歴史認識よりも、戦争に参加せざるえなかった「一国民」としての「心情」をこそ大切にしたいようである。
 だから、「外国政府が心の問題にまで介入して、外交問題にしようとする」との批判となる。「心の問題」(=私事)への内政干渉といわんばかりの口吻である。

 しかし、百歩ゆずって「一国民」としての小泉純一郎その人の「心情」を理解したとしても、それは政治家の感傷主義と紙一重である。
 小泉首相においては、「一国民」としての「心情」や「信念」が肥大化し、「侵略」「敗戦」に対する「一国の首相」としての結果責任をも飲み込んでしまっているのではないかと危惧する。


 池田 行信