先日、新たな寺院設立をめざし都市開教活動をしている布教所の専従員の方々との協議会に参加する機会がありました。懇談の中で、本山や県庁(所轄庁)に届け出る門徒名簿の作成の苦労が話題になりました。いつも親しくお会いする方でも、生年月日を聞いたり、役員の依頼をしようとすると必要以上に警戒をされてしまうということです。そのことに対し複数の方々から、個人情報の保護の観点から生年月日などは届け出る必要はないのではないかという意見が多くありました。
最近では、個人情報の保護について、多くのひとがとても神経質になっています。昨年行われた国政調査では、調査員の方々が大変苦労をされ、現在の調査方法ではまともな調査ができなくなってしまうのではないかとの意見も多く出されていました。
私の寺では、平均して日に2〜3件は電話機や金融取引などの勧誘の電話がかかってきます。迷惑なことこのうえありません。個人情報が悪質な業者に流れているのではないかと思いますとぞっとします。私は、このような勧誘の電話がかかってきた場合、話を聞かずにすぐ切るようにしています。なまじ相手をしますと、しばらくの間不愉快な思いが残ってしまうようなことになりかねません。
そのような思いをしている人が多いせいでしょうか、学校の卒業アルバムに住所録が載らなくなりました。最近では、ある学校で緊急連絡網も配られなくなったという話を聞きました。しかし、このような状況は、少々度が過ぎているのではないかという気がしないでもありません。少しの不届き者のために、大勢の人々が不自由をするのは納得がいきません。
むしろ、この風潮は、悪い人やずる賢い人をも保護することになります。公開をする方が、個人を保護することになることも多くあると思います。例えば、電話番号などは、すべてを公開し、通話時には、相手の電話番号を受話器を取る前に確認ができ保存できるようにすべきです。特に番号非通知の営業電話は法律で罰するようにすることのほうが、個人の保護につながるのではないでしょうか。
神戸の震災のとき震源の淡路島に犠牲者が少なかったのは、近隣の人々がお互いの情報を知り得ていたから被災者の救出が迅速に行われたのだ、という検証があったことを思い出します。
しかし、現在はすでに、社会全体が疑心暗鬼の世の中になってしまいました。ほくそえんでいるのはだれでしょうか。個人情報保護法の施行が、この風潮を一気に加速したような気がします。もうあとへ戻ることはできないのかもしれません。
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小林 泰善 |
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