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 06.05.01 


「靖国問題の論点整理」

1、小沢民主党新代表の靖国認識

 民主党の新代表に就任した小沢一郎氏は4月9日のNHKの報道番組で、小泉首相の靖国神社参拝問題について「小泉氏の(参拝で)は駄目だ」と批判した。
 その理由として、「俗にA級戦犯と言われる人たちは戦争で死んだわけではない。日本の国民に対し戦争を指導した大きな責任があり、本来靖国神社に祭られるべきではない」とA級戦犯の合祀に問題があることを挙げ、「戦争で亡くなった人たちの御霊を守る本来の靖国神社の姿にかえり、天皇も首相もちゃんと参拝すればいい」と述べた。(「YOMIURI ONLINE」2006年4月10日 読売新聞)

 しかし、具体的にどうすべきかについては、番組後記者団に「政権を取ったらすぐやる、そのとき教える」と明言しなかった。(『朝日新聞』2006年4月10日、夕刊)

 また、小沢氏は雑誌『AERA』(2006年1月23日)のインタビューで、次のように語っている。

 戦犯という名は勝者がつけたものだからさておいても、A級戦犯の連中、東条英機や板 垣征四郎は岩手県人だけれども、外国からいわれる以前に、彼らを僕は許せない。
 生きて虜囚の辱めを受けずと教え込んで三百数十万を死なせた張本人じゃないか。靖国に祭られるべき存在じゃない。
 岸信介にしても戦後は仏を供養して過ごすべき人間です。僕がこんなことをいうとびっくりする人がいるんだが、本心、そう思ってるんだ。


 東条英機や板垣征四郎らの戦争指導者の責任問題は別にしても、靖国問題をA級戦犯合祀の問題に矮小化してはいけない。
 A級戦犯を分祀すれば靖国問題は解決するというのは、政治的決着の発想である。A級戦犯合祀の是非に収まりきれない種々の要素が、靖国問題には含まれている。

2、靖国推進派の主張

 靖国問題はより多面的に論じられねばならない。靖国推進派はいう。

 戦没者慰霊の中心的施設は靖国神社である。にもかかわらず、公明党や民主党は靖国神社に代わる無宗教の国立追悼施設の建設を図ろうと目論んでいる。
 靖国神社国家護持反対派は、戦後の神道指令に基づく厳格な政教分離思想や、日本を一方的に裁いた東京裁判に基づく歴史観に呪縛されている。だから、正しい政教関係の樹立と東京裁判史観を払拭しなければならない。(『つばさ』神道政治連盟だよりNO.33 平成17年1月31日、参照)


 靖国推進派の論点を整理すれば、以下の3点になる。

 @戦没者慰霊の中心的施設は靖国神社
 A正しい政教関係の樹立
 B東京裁判史観の払拭

 天皇・首相の靖国神社参拝自体には「賛成」であるという小沢氏は@を肯定する立場にあるようである。また、「戦犯という名は勝者がつけたものだからさておいても」との口吻からすると、Bにも近い立場にあるように思われる。
 しかし、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」(いわゆる「村山談話」平成7年8月15日)というのが日本政府の公式見解であることからすれば、「政教分離」を厳守しなければならない首相・閣僚の立場にあって@Bを認めることは不可能である。

 Aについては「政権を取ったらすぐやる。そのとき教える」という小沢氏の本心は知りがたい。これまでの民主党の「無宗教の国立追悼施設」建設の立場にあるのかも、判断しがたい。
 「政教分離」を厳守しなければならない首相・閣僚の立場にあって、@Bを認めることは出来ないが、Aの「正しい政教関係」を論ずることは可能である。靖国問題をめぐる「正しい政教関係」は、具体的には、「無宗教の国立追悼施設」建設是非の論議になる。


3、新たな政教関係の試み

 毎年8月15日に政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館で開催されている。
 天皇や首相も参列するこの式典に反対だという意見は寡聞にして知らない。国外からの批判の声も聞いたことはない。
 「先の大戦において亡くなられた方々を追悼し平和を祈念する」(「戦没者を追悼し平和を祈念する日」について)こと自体は、多くの日本人から支持されているといえよう。
 問題はその追悼のための施設である。「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会 報告書」(平成14年12月24日)は、次のように述べている。

 先の大戦による悲惨な体験を経て今日に至った日本として、積極的に平和を求めるために行わなければならないことは、まずもって、過去の歴史から学んだ教訓を礎として、これらすべての戦没者を追悼し、戦争の惨禍に深く思いを致し、不戦の誓いを新たにした上で平和を祈念することである。
 これゆえ、追悼と平和祈念を両者不可分一体のものと考え、そのための象徴的施設を国家として正式につくる意味があるのである。


 8月15日の政府主催の全国戦没者追悼式の会場である日本武道館は財団法人であり、その目的は「我が国伝統の武道を国民とくに青少年の間に普及奨励し、武道による心身の錬磨を通じて健全な育成を図り、民族の発展に寄与するとともに、広く世界の平和と福祉に貢献することにあります」とある。日本武道館は追悼施設ではない。

 「追悼は心の問題だから施設はいらない」という人もある。また、戦後60年も経っていまさら「無宗教の国立追悼施設」など「第二の靖国」になるだけだという人もある。

 しかし、私は、「追悼と平和祈念」の「象徴的施設」は必要であると考える。なぜなら、私たちはつねに自分以外の他者とともにある存在であり、その他者とともに「追悼と平和祈念」をするためには、どうしても「象徴的施設」を必要とするからである。

 「追悼は心の問題だから施設はいらない」というなら、それこそ靖国神社や千鳥ケ淵墓苑をはじめ、さらには全国の寺院や神社や教会を会場としての追悼式や慰霊祭も不必要となろう。「追悼は心の問題だから施設はいらない」というのは、多くの悲しんでいる他者を欠落させた追悼意識に思えてならない。

 私は他者を欠落させた追悼意識に陥ることなく、かつ@戦没者慰霊の中心的施設は靖国神社との主張を否定するとともに、「天皇も首相もちゃんと参拝」することの出来る施設は、「信教の自由」「政教分離」の原則下においても可能であると考える。
 それは、先の@Bを否定した新たな政教関係の構築による。その一つの試みが、「無宗教の国立追悼施設」建設である。もちろん、「無宗教の国立追悼施設」を「第二の靖国」にさせないためには、その議論は@Bの主張を批判する立場での、新たな政教関係の議論であることはいうまでもない。


 仲野 光圓