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 06.05.01 


「ニッポン、ガンバレ」を考える

 ◎ナショナリズム(国家主義)とペイトリオティズム(郷土主義)

 WBCという聞き慣れない国際野球大会での日本代表の活躍の様子や、冬期オリンピックで荒川静香選手の金メダル獲得の様子が、マスメディアから興奮した調子で放送されました。もちろん普段から野球やウィンタースポーツを愛好する人にとっては気になる出来事でしょう。
 ところがスポーツに余り興味もなかった人びとまで、「ニッポン、ガンバレ」という報道の影響で、いつの間にか同調し、興奮・高揚するムードが生まれました。これは、同じ郷土から出ていった同朋に対する仲間意識や郷土主義をもとにしているように思います。
(日本ではマスコミの影響により、1990年代のある時を契機に、ニッポンと統一して発音されるようになりました。丁度、戦後、しばらく皇室関係の人びとを呼び捨て報道していたにもかかわらず、ある時期から「さま」付けで呼ぶようになった違和感と同じものが、その背景にあるように感じます。)
 国家によって一方的に押しつけられるナショナリズム(国家主義)には、丁度、国を愛しなさいという改悪・教育基本法と同じように他国を排除する思いと結びつくものがあり、とても賛同できません。しかし同郷意識は、これとはまったく違い、他国の排除ではなく同じ郷土の出身者とのつながりを強く思う気持ちです。余り耳にしない言葉ですが、これをここではペイトリオティズム(郷土主義)とよびます。
 日の丸・君が代を強制し罰則を加える東京都教育委員会などの報道が流れるとスポーツにおけるナショナリズムが気になります。それは、サッカーや野球で中国や韓国の人々がそこで極度の対抗意識を持つのは、歴史の事実に政治的なものを見出し、ナショナリズムが想起されるからです。そこで今回は、スポーツとナショナリズムの関係を考え、さらにペイトリオティズム(郷土主義)ということも考えられればと思います。

 ◎スポーツの自由と政治的利用の歴史

 スポーツは、本来、人びとの自由な思いの上に楽しみ競うものです。それが自由であることは、そのルールが民間の連盟の自治が認められていることにも見られます。例えば、試合中に傷害行為があっても刑法や民法で罰せられません。つまり、スポーツの領域には政治や権力が介入することはないという原理や原則が認められているのだそうです。
 一方、スポーツは企業や地域自治体などの関係で社会活動となっているものも多くあります。企業や地域の名前を冠したチームは今や当たり前です。スポーツ以外の社会活動が政治や経済との関係で成り立つように、スポーツも政治や経済の介入を避けて通れないという現実や歴史があります。
 例えばスポーツと国際政治という関係では、象徴的な出来事として、ナチスドイツ政権の開催した36年のベルリンオリンピックがあります。国家主義が専制すると自国民だけでなく他国民までも大会の虚飾によって欺されるということを学ばされました。
 ではその後のオリンピックはどうでしょう?実は、オリンピックは常に政治に介入され、個人の自由が翻弄された歴史そのものでした。これも関係サイトで確認できますので詳しくは省略します。
 有名なのは、72年のミュンヘンオリンピックで、最近、映画化されました。この大会で、パレスチナのテロリスト8人がオリンピック村を襲撃、イスラエルの役員・選手11人が殺されます。彼らは、イスラエルの刑務所にいる200人の捕虜の解放を要求し、戦闘は空港まで続き、大会は34時間停止します。
 80年のモスクワオリンピックでは、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議したアメリカとそれに追随した計66の国々がボイコットします。
 84年のロサンゼルスオリンピックでは、反対にソ連と13の社会主義国によってボイコットします。アメリカのモスクワ大会ボイコットに報復し、また組織委員会が大会を商業目的に利用してオリンピック精神を侵したことに世界の注意を引くためでした。
 88年のソウルオリンピックでは朝鮮民主主義人民共和国、キューバ、エチオピア、ニカラグアがボイコットを行ないました。
 オリンピック以外でも、国際間の試合は、様々な政治問題を孕んでいます。植民地支配下の選手を支配国の選手と呼ぶ矛盾、外国人力士の半強制的帰化の問題、などなどです。

 ◎ピンポン外交をご存じですか?

 90年代に入ってから、国際的な試合で若者が日の丸を振り、君が代を歌う光景が目立ちました。自分の顔に日の丸をペインティングするなど、旗や歌への態度はそれまでよりも軽くなり、強制された様子は全くなく、自発的です。
 福島大学助教授の坂上康博さん(スポーツ文化論)は「彼らは単純に連帯感を味わっているだけ。戦前のようなナショナリズムの復活とは思えない」という見方をとります。(『朝日新聞』1999年11月26日夕刊)
 しかし、ナショナリズムとは本来に連帯感で動員をはかる手段でした。すると、日の丸・君が代を軽く捉えているとか自発的だというのは程度の問題です。サッカーを通じて「日本人」としての連帯感を現代の若者が求めているという現象に対しては注意すべきです。
 かつて「自発的」なナショナリズムは「健全」なナショナリズムだという論議がありました。しかし、ナショナリズムを善悪で指摘することが間違いです。つまり自発的なナショナリズムで起きた暴動や事変というテロが過去、世界各地で繰り返されたことを見れば一目瞭然です。
 ナショナリズムと不可分なスポーツですが、注目すべきは、スポーツによる交流が国家レベルに影響をもたらした側面です。
 常に政治に利用されるスポーツが国交回復の一助となった例です。
 71年3月、名古屋で開催された世界卓球選手権大会は、国際政治の歴史的な舞台となりました。文化大革命の混乱でその前の大会に不参加だった中国ですが、毛沢東が参加を承認することで、国内の反対論を抑え込みます。
 大会中、元世界チャンピオンの荘則棟と米国のグレン・コーワンとが友好交流を行ないましたが、当時としては衝撃的な出来事で、マスコミで大きく報じられました。
 中国は米チームの招待を決定し、米国など5カ国チームの訪中が実現します。米国のスポーツ団が訪問するのは、49年建国以来であり、米中の「扉が開かれた」(周恩来)といえます。これがピンポン外交として世界中に伝わります。
 当時のニクソン政権は、これを機に7月のキッシンジャー大統領補佐官の秘密訪中を実現し、翌年2月の歴史的なニクソン訪中となります。この流れは日中国交正常化へともつながりました。
 ナショナリズムを基礎にして他の国の人びとと繋がることはできません。他国の人と結びつくのは、自分の郷土を持ちながら、同じ人間であるという意識が芽生えるときに生まれるのでしょう。ナショナリズムのもたらす敵意を越えて、国際的に繋がっていくのが、同郷という所に根ざすペイトリオティズムではないでしょうか。

 難しく考えなくとも、無邪気に草野球やママさんバレーに興じている人は、このことを知っているのでしょう。お念仏と同じように暮らしの中に生きる姿を大切にしたいものです。政治も外交も、上からの押しつけでなく、人間性をもとに展開すべきでしょう。



 万木 洋治